普通の心とリクパは最初は意思と観察として瞑想中に認識される

2021-05-26 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

普通の心は思考する心であり雑念や物思いにふける行動する側の心ですが、心の本性はリクパとも言って観察する側の自分の心です。

これは、瞑想が進むと違って見えてくるのですが、最初はこのように見えます。

瞑想がそれほど進んでいないうちは意思というと普通の心のことで、心の本性のリクパは全く知覚できないかあるいは知覚できたとしても観察する心として認識されます。ですから、上の分類のようになります。

・普通の心 → 思考する心
・心の本性(リクパ)→観察する心

大きくざっくりと分けるとそういうことですけど実際には普通の心にも行動としての意思と観察する認識力がそれぞれあって、心の本性であるリクパにも現実に働きかける行動する意思と認識する観察の働きがあります。ですから、意思と認識とがそれぞれあるので、実際のところ本当は2つの心なんてなくてひとつづきの心があるだけなのです。ですけど、確かに働きとしては違ったもののように見えもしますので、瞑想の基本としてはこれらはざっくりと大きく分けて思考する普通の心と観察する心の本性として分類されています。その分類は流派によって多少は違いますけど、概ね、表層にある普通の思考する心と奥に存在している観察する心あるいは意思、という分け方になっています。

ですから、思考と観察という分類になってはいますけど、それをそのまま解釈するよりは、本当はひと続きの心であるけれども表層の心と心の本性とがあって、表層の心が一応は思考する心として説明されていて深層の心が観察する心として説明されている、と読み替えればいいと思います。実際には上記の通りそれぞれに観察と意思とが存在しているわけですけれども、確かに様相は違いますので、割とこのような分類を瞑想の業界ではすることが多いように思います。

瞑想で言いますと、集中する瞑想というと普通の心に属することで、観察する瞑想というと心の本性に関する瞑想であることが多いです。瞑想の流派ではそのような分類になっていることが多いです。とは言いましても、実際には上に書きましたように普通の心にも心の本性にもそれぞれの特徴は違えども意思と観察とが両方とも存在しています。

・集中する瞑想 → 普通の心
・観察する瞑想 → 心の本性(リクパ)

集中瞑想と観察瞑想、という違った瞑想として分けている流派もあれば、1つの瞑想の集中と観察という面として説明している流派もあるのでこの辺りが更にわかりにくいものになっています。

集中瞑想というと普通の心を意味することが割と多いですけど、意思の集中は心の本性のリクパにおいても存在していますので、実際のところ、心の動きの集中という働きに関する瞑想が集中瞑想です。

・集中する瞑想 → ひと続きの心(普通の心と心の本性(リクパ)の両方)

また、観察瞑想というと普通の心を意味する時もあれば、心の本性のリクパに関する意味の時もあります。これまたコンテキスト次第ですのでわかりにくいです。

・観察瞑想 → 普通の心、あるいは、心の本性のリクパ

1つの瞑想を集中と観察という面で分けている時は、基本はやはり普通の心の集中と観察という面を取り上げていますけど、瞑想が進めば同じ説明がそのまま心の本性のリクパにも適用できることが多いです。

・心の本性(リクパ)→ 集中と観察

流派の説明としておそらく一番わかりやすのが、チベット式とヴェーダンタ式かなと思います。チベット式は普通の心と心の本性(リクパ)を分けて考える方法で、ヴェーダンタ式あるいはヨーガ式では思考する心はアンタッカラナ(内なる道具)と言って心の認識力(五感)と思考力(ブッディ)などがこのアンタッカラナとして説明されています。一方で、心の本性はヴェーダンタではアートマンの3つの要素であるチット・サット・アーナンダのうちのサットが「意思」として説明されています。サットは思考ではなく意思ですので、確かに、瞑想で認識されるひと続きの心のうちの奥底に部分は思考というよりも意思ですのでしっくりきます。

・普通の心 → アンタッカラナ(ブッディ=認識力、チッタ)
・心の本性(リクパ)→ アートマン(チット・サット・アーナンダ)

これらの説明は複数の流派の説明を混ぜ合わせていますのでその筋の流派の人が見たら「なんじゃこりゃ」と思うかもしれませんけど、実践的な観点からするとこのような共通点を押さえておくのは理解に役立つと思います。