最近は、普通の心の働きよりも心の本性の働きの方が強くなったように思います。少し前まではそうではありませんでしたので、つい最近、これらの優勢がひっくり返って心の本性のリクパの動きの方が強くなってきたのです。それで具体的に何が変わるのかと言いますと、普通の日常生活をしているときに瞑想状態に引き戻される力の方が瞑想状態から離れる力よりも強く働くようになった、ということを実感します。
そうは言いましてもとても疲れている時とかはそうでなかったりもするのですが特に負荷がかかっていない普通の生活においては意識が瞑想状態に引っ張られる力が常に働いているようになりました。
今までは瞑想状態から離れる力の方が強くて、最近は割と拮抗してはいたのですけどそれでも優勢という観点から言えば瞑想状態から離れる方が今までは強くて、ここ最近になって、そこまでまだ強くはないですけど瞑想状態になる力が日常生活の中において常に働くようになったように思います。
ですから、今までは瞑想を終えてから日常生活を送っているといつの間にか瞑想状態から落ちてしまっていて、今も仕事中とかはそうでもなかったりもしますけど、割と仕事中でも時々は気がついたり、あるいは、日常生活においてはもっと簡単に瞑想状態に引き戻されるような感覚がしています。
この状態になると、自分が肉体ではなくて意思(サット)としてのアートマン(真我)だということをはっきりと認識できるようになりました。
意思としてのアートマンが行動するときは行動そのものが自らの心の本性のリクパあるいはアートマン(真我)と呼ばれているものと一体化します。
それは一体化と呼ぶこともできますし、ヨーガ式に言えば「自分の中心軸を見つける」だとか「自分の中心軸を意識する」みたいな言い方になるかと思います。ヨーガでいう中心軸はサンキャ哲学に基づいて「プルシャ」と呼ばれることもありますけど、同じことだと思います。
その、アートマンあるいはプルシャが自分の本性だとはっきり自覚できるようになって、思考する心よりアートマン(あるいはプルシャ)が優勢になってきたことでますます解放されて自由になってきたように思います。
以前、ここまで瞑想が進んでいないうちは私はアートマンを「熱感」だとか「観察する意識」として認識されてきたわけですけど、ここ最近は、アートマンが実際に自分の内に存在していて自分を動かしている意思あるいは意識としてはっきり認識しています。
アートマン(真我)こそが私を生かしていて、アートマンの意思が私の体を動かし、何をするのかもアートマンが決めて、アートマンこそが私であるのです。アートマンは実際に私の胸の内に存在していることがはっきりと分かるのです。それはただの熱感ではなく、実際の「意思」として体を動かし思考を動かすための根源の意思としてアートマンが実在していることがはっきりと疑いなく分かるのです。
これは理屈ではありません。理屈で考えてきっとそうだと理解したりあるいはとても勉強して腑に落ちるとかそういう面もなくはないですけどあくまでも勉強は説明のためだけのもので、本質はというと実際に瞑想で体験して、一時的な体験だけでなく、永続的な状態として身につけてこそこのことがわかるのかな、と最近は実感しております。
流派によっては同じことを説明するために「理解」という言葉を使いますけど、これは単なる理解ではなく実感でありますので、理解という言葉は不十分な気が致します。流派によっては「知識が現れる」「知識が起こる」みたいな言い方をすることもありますけど、それでも不十分で、はっきりと知覚することは永続的な体験でしかありませんので、それは頭で理解することではなくて、むしろ、体感することが重要で、疑いがなくなるほどの確実な永続的な不可逆的な状態変化であると思うのです。言葉で言い表すと長くなってこういう説明にもなりますけど本質はもっと単純で、聖典の言葉が真実であるとはっきりと分かる、という、それだけのことでもあります。
それは、静寂の境地においてはっきりと認識できるものです。浄化が進んで静寂になり、やがてアートマンを自覚するわけです。
アートマンと認識は分離されていなくてアートマンそれ自身が認識そのものですので、私の知覚がアートマンを認識すると言うような分離があるのではなく、そこに分離はなく、胸の内にあるものが認識そのものでありそれがそのままアートマンだと自覚するわけです。ですから、アートマンというものを持っているわけではなくて、自らの認識そのものがアートマンだと自覚するようになるわけです。