本日の瞑想中、急に子供の頃に遊んだゲームのBGM(音楽)が流れてきて懐かしい思いに3〜5秒ほど浸りました。久々に遊んでみてもいいかなという思いに包まれたわけですが、特に否定することもなく、同意することもなく、そのBGMを聞いていました。
メロディが2〜3周するまでは普通に流れていました。
すると、どうやらそれは体のどこかに眠っていた想念だったのか何なのか、急にふとその思いが弱まって行きました。
思いが弱まる、というのは、想念が弱まっていった、ということです。
具体的には、聞こえていた音楽が想念だったわけですが、その音楽の心の中の音量が小さくなっていって、1秒ごとに5%ほどボリュームが小さくなるようなゆっくりとした音量変化で20秒ほどかけて音楽が消えていったのです。
少し前に、論理思考は独立して機能しているみたいなお話を書きましたが、その中の表現を使いますと、想念や雑念は割と体の感覚に近くて、今回の音楽はこの種の雑念・想念として現れていました。
一方で、それを眺めている「見ている」という感覚は別にあって、いわゆる「観」、「アウェアネス(気付き)」、「ヴィパッサナー(観察)」という表現で言い表されるものがその音楽を聞いていたわけです。
それは聞いていたわけですが、瞑想的な表現としては「眺める」という言葉を使っても同じことです。今回は映像はなくて音楽だけだったわけですが、瞑想的にはそんな時も「眺める」とか言ったりすると思います。まあ、文化的なものかもしれません。瞑想は集中(サマタ)と観察(ヴィパッサナー)ですので観察というと映像的なイメージがどうしても強くなってきてしまいますが、音楽を観察する場合は「聞く」であったとしても「見る」という表現を使ったりします。
ヨーガの理屈からいうと「見る」という機関は全ての五感を代表していて、「見る」という機能が他の全ての機能そのものだ、というような説明もありますので、そう言った観点からも「見る」という表現は間違いではありません。
まあ、理屈はそういうことではありますが、今日の瞑想では、音楽が不意に現れて、それが割と長い時間をかけて消えていったわけです。
瞑想の説明で「雑念が浮かんでもそれと戦ったりせずに観察するとその想念は力を失ってやがて消えて行きます」みたいなお話がヨーガではよくありますけど、これは、私が思うには中級者以上のお話だと思います。
サマタで集中する力がつき、更にヴィパッサナーで観察する力がついて初めてそれが可能になるのかな、と私なんかは思うわけです。
そうなる前は、雑念が浮かんできたら「ギュッ」と念を込めて意識的に雑念を止めるくらいしか方法がないと思うのです。
どうも、ヨーガやその他の方法は初心者に優しくない(苦笑)と言いますか、中級者以上向けのお話を初心者にも適用させていて、それが混乱を招いているような気も致します。
例えばヴェーダンタも中級者以上のお話なのに最初から知識だけで悟れるわけもないですしね。
私なんかが思うには、最初はヨーガでサマタ瞑想(集中瞑想)でゾクチェンの言うところのシネーの境地に至って、その後にヴィパッサナー状態に達したらヴェーダンタにしても適用可能になるかと思うのですが、どうも、段階を踏んで成長すると言う観点が薄い... と言いますか、本人たちには明確なのかもしれませんが、どうもわかりにくかったです。
まあ、その話などもおいおい。