視界だけでなく体の動きも細かく感じるヴィパッサナー

2020-03-05 記
トピックスピリチュアル

まるでロボット・ダンスをしているかのようです。さすがにテレビで見るくらいの凄い動きはできませんけど普段の生活の体の動きが細かくスムーズな挙動として認識されます。

以前は視界だけでしたが、今は腕や体の動きもスムーズに認識されます。まだ全身がそうだと言うわけではありませんが、かなり動きを認識できています。

歩く時。
腕を動かす時。
体の角度を変える時。

特別に意図して意識しなくても意識されるのです。自然な認識です。

2ヶ月前にスローモーションのヴィパッサナー状態が始まった時、主に視界における変化でした。体の感覚も微細に細かく感じられるようにはなりましたが、今日ほどスムーズには認識できてはいなかったように思います。

おそらくは先日のルドラ・グランティかなと思われる意識の変革以降にこのように認識力が高まったような気が致します。

ヴィパッサナー瞑想というと体の感覚を観察する瞑想として理解されることが多いと思います。皮膚の感覚ですとか息を観察することがヴィパッサナー瞑想であるという説明を耳にすることが多いですし、私もかつてはそのように思っておりました。

しかし、今思うのは、意思でわざわざ観察するのは本来のヴィパッサナー瞑想ではないということです。リラックスして意思なくしてヴィパッサナーが自然に自動的に働く状態が本来のヴィパッサナーであって、それはもはや「行動」ではないのです。観察するという「行動」があるうちはそれは本来のヴィパッサナーではなく、観察しているのが結果と言いますか「状態」であるならばそれはヴィパッサナーになり得るのです。この違い、言葉で言い表すのはなかなかに難しいです。

「意思」で「観察しよう」と思っているのは「行動」であり、わざわざ観察しなければ観察できないのだとしたらそれは本来のヴィパッサナーではないということです。

本来のヴィパッサナー状態とは、そのような「意思」なしに観察されるものです。それを「状態」と呼ぶこともできますが、明確な行動としての意思はなくても観察している「なにか」、「見るもの」は存在しています。

理屈としては何かを観察する時は「見るもの」が必要です。それは確かに存在しています。普通に「見るもの」というと「見る対象=見られるもの」が存在しますが、この種のヴィパッサナー状態では「見るもの」も存在するのは確かですが、「見られるもの=見る対象」が「自らと不可分のもの」として感じられるわけです。

通常、人の意識が五感を使って周囲を見たり観察する時はその対象との間に明確な区分が存在します。「見るもの」と「見られるもの」は別物です。

世間一般でよく聞くヴィパッサナー瞑想は五感を使って周囲を観察したり息を観察したり皮膚の感覚を使って観察したりします。そこには、五感を使った「見るもの」と「見る対象」の区別があって、それが一体になることはありません。感覚をずっと観察しているとその読み取る内容が微細になって細かく知ることができるようになりますが、それは本来のヴィパッサナー瞑想ではなく集中して観察しているのですから集中瞑想、サマタ瞑想であると私なんかは思うわけです。

五感を使ったヴィパッサナー瞑想は観察していると言いながら実は集中をして瞑想をしているのですが、それがヴィパッサナー瞑想だと言ってしまうところに混乱があって、観察という言葉を使ってしまうとバイアスが生まれ、「集中」という意義が失われ、意義が失われるだけならばいいのですが、「集中してはいけない」という理解が生まれ、「集中することに対する否定の意識」が生まれているようなヴィパッサナーの流派もあるように思われます。

実際には、ヴィパッサナーと説明されて瞑想をするが実はサマタ瞑想をしているのだということはおそらくはその流派の上級者・グルにとっては当たり前のことではないかなと私なんかは推測しています。ですが、これまた推測ではありますが、サマタ瞑想をしようがヴィパッサナーと称してサマタ瞑想相当をしようがどちらにせよ高い境地に行き着くことはあるし、逆に、これはある種のセンスというところになってしまうのですが、辿り着かない人はどうやっても辿り着かないのだから、まあ、あまり手法をどうこうしてもしょうがない... という境地にグルは達しているのではないかと思います。

ですから、よく言われているように瞑想は色々と手法があって、向き不向きがあるので自分に合ったものをするのがいい、というのは真理なのかなと思います。

私なんかはストレートなのを好みますのでヴィパッサナー瞑想と説明されながら実質はサマタ瞑想をするよりは直接にサマタ瞑想をした方がいいと思うたちです。

ヴィパッサナー瞑想はサマタ瞑想で意思が確かな安定したものになったのちに出てくるもので、上にも書きました通り、その時は対象と自分自身の区別がつかなくなっています。それをヴィパッサナーの流派はヴィパッサナーと呼びますが、ヨーガ系の流派は同じことをサマーディと呼ぶ、という、ただそれだけのことだと思います。

手法としてのヴィパッサナー瞑想はやり方だけのお話であり実質はサマタ瞑想をしているのだとすれば手法を真似ているだけの時はまだサマーディ状態ではないのは明らかです。

ステップ的には以下のようになると思います。

1.サマタ瞑想をして眉間などに集中する、あるいは手法としてヴィパッサナー瞑想を真似て五感を使った観察をして集中する(説明で集中とは言われないかもしれないが実態は集中瞑想・サマタ瞑想)。
2.ヴィパッサナー瞑想に移行する。同じ状態をヨーガの人はサマーディと呼ぶ。

非常に明快でシンプルです。

実際、ヴィパッサナー/サマーディ状態とはサマタ瞑想をして雑多な意識・いわゆるマインド・思考を抑えた時に出てくる状態ですので、五感を使って観察するのとはかなり違った状態になります。

ヴィパッサナーとサマーディが同じだというのは私の解釈です。他所ではほとんど聞いたことがありません。流派が違うのでそのような混ぜた解釈を行っている人はあまりいない気もします。

にも書きましたが、思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはならないということもありますのでサマタ瞑想をしているだけではヴィパッサナーにそのまま遷移することはなくて、いわゆる浄化が進んでいかないとヴィパッサナーの観察力が出てこないとは思います。

これらを右脳と左脳で解釈されている方もいる気が致します。サマタ瞑想が論理的思考を司る左脳の動きを止めるための瞑想で、左脳の動きが止まった状態を前提として右脳の動きを活性化させ、右脳的な観察力が出てくるとヴィパッサナーになる、という表現もできる気が致します。私はあまりこういう言い方はしませんけど、人によっててはこの方が理解しやすいかもしれません。

サマタ瞑想をしているだけではヴィパッサナー状態にならない、というお話も、左脳の動きを止めるだけで右脳が動きだすとは限らない、という解釈ができます。左脳の動きを止めることに加えて右脳が動きだすと初めてヴィパッサナー状態になるわけです。