想念が20秒かけて消えてゆくのを観察する
本日の瞑想中、急に子供の頃に遊んだゲームのBGM(音楽)が流れてきて懐かしい思いに3〜5秒ほど浸りました。久々に遊んでみてもいいかなという思いに包まれたわけですが、特に否定することもなく、同意することもなく、そのBGMを聞いていました。
メロディが2〜3周するまでは普通に流れていました。
すると、どうやらそれは体のどこかに眠っていた想念だったのか何なのか、急にふとその思いが弱まって行きました。
思いが弱まる、というのは、想念が弱まっていった、ということです。
具体的には、聞こえていた音楽が想念だったわけですが、その音楽の心の中の音量が小さくなっていって、1秒ごとに5%ほどボリュームが小さくなるようなゆっくりとした音量変化で20秒ほどかけて音楽が消えていったのです。
少し前に、論理思考は独立して機能しているみたいなお話を書きましたが、その中の表現を使いますと、想念や雑念は割と体の感覚に近くて、今回の音楽はこの種の雑念・想念として現れていました。
一方で、それを眺めている「見ている」という感覚は別にあって、いわゆる「観」、「アウェアネス(気付き)」、「ヴィパッサナー(観察)」という表現で言い表されるものがその音楽を聞いていたわけです。
それは聞いていたわけですが、瞑想的な表現としては「眺める」という言葉を使っても同じことです。今回は映像はなくて音楽だけだったわけですが、瞑想的にはそんな時も「眺める」とか言ったりすると思います。まあ、文化的なものかもしれません。瞑想は集中(サマタ)と観察(ヴィパッサナー)ですので観察というと映像的なイメージがどうしても強くなってきてしまいますが、音楽を観察する場合は「聞く」であったとしても「見る」という表現を使ったりします。
ヨーガの理屈からいうと「見る」という機関は全ての五感を代表していて、「見る」という機能が他の全ての機能そのものだ、というような説明もありますので、そう言った観点からも「見る」という表現は間違いではありません。
まあ、理屈はそういうことではありますが、今日の瞑想では、音楽が不意に現れて、それが割と長い時間をかけて消えていったわけです。
瞑想の説明で「雑念が浮かんでもそれと戦ったりせずに観察するとその想念は力を失ってやがて消えて行きます」みたいなお話がヨーガではよくありますけど、これは、私が思うには中級者以上のお話だと思います。
サマタで集中する力がつき、更にヴィパッサナーで観察する力がついて初めてそれが可能になるのかな、と私なんかは思うわけです。
そうなる前は、雑念が浮かんできたら「ギュッ」と念を込めて意識的に雑念を止めるくらいしか方法がないと思うのです。
どうも、ヨーガやその他の方法は初心者に優しくない(苦笑)と言いますか、中級者以上向けのお話を初心者にも適用させていて、それが混乱を招いているような気も致します。
例えばヴェーダンタも中級者以上のお話なのに最初から知識だけで悟れるわけもないですしね。
私なんかが思うには、最初はヨーガでサマタ瞑想(集中瞑想)でゾクチェンの言うところのシネーの境地に至って、その後にヴィパッサナー状態に達したらヴェーダンタにしても適用可能になるかと思うのですが、どうも、段階を踏んで成長すると言う観点が薄い... と言いますか、本人たちには明確なのかもしれませんが、どうもわかりにくかったです。
まあ、その話などもおいおい。
メロディが2〜3周するまでは普通に流れていました。
すると、どうやらそれは体のどこかに眠っていた想念だったのか何なのか、急にふとその思いが弱まって行きました。
思いが弱まる、というのは、想念が弱まっていった、ということです。
具体的には、聞こえていた音楽が想念だったわけですが、その音楽の心の中の音量が小さくなっていって、1秒ごとに5%ほどボリュームが小さくなるようなゆっくりとした音量変化で20秒ほどかけて音楽が消えていったのです。
少し前に、論理思考は独立して機能しているみたいなお話を書きましたが、その中の表現を使いますと、想念や雑念は割と体の感覚に近くて、今回の音楽はこの種の雑念・想念として現れていました。
一方で、それを眺めている「見ている」という感覚は別にあって、いわゆる「観」、「アウェアネス(気付き)」、「ヴィパッサナー(観察)」という表現で言い表されるものがその音楽を聞いていたわけです。
それは聞いていたわけですが、瞑想的な表現としては「眺める」という言葉を使っても同じことです。今回は映像はなくて音楽だけだったわけですが、瞑想的にはそんな時も「眺める」とか言ったりすると思います。まあ、文化的なものかもしれません。瞑想は集中(サマタ)と観察(ヴィパッサナー)ですので観察というと映像的なイメージがどうしても強くなってきてしまいますが、音楽を観察する場合は「聞く」であったとしても「見る」という表現を使ったりします。
ヨーガの理屈からいうと「見る」という機関は全ての五感を代表していて、「見る」という機能が他の全ての機能そのものだ、というような説明もありますので、そう言った観点からも「見る」という表現は間違いではありません。
まあ、理屈はそういうことではありますが、今日の瞑想では、音楽が不意に現れて、それが割と長い時間をかけて消えていったわけです。
瞑想の説明で「雑念が浮かんでもそれと戦ったりせずに観察するとその想念は力を失ってやがて消えて行きます」みたいなお話がヨーガではよくありますけど、これは、私が思うには中級者以上のお話だと思います。
サマタで集中する力がつき、更にヴィパッサナーで観察する力がついて初めてそれが可能になるのかな、と私なんかは思うわけです。
そうなる前は、雑念が浮かんできたら「ギュッ」と念を込めて意識的に雑念を止めるくらいしか方法がないと思うのです。
どうも、ヨーガやその他の方法は初心者に優しくない(苦笑)と言いますか、中級者以上向けのお話を初心者にも適用させていて、それが混乱を招いているような気も致します。
例えばヴェーダンタも中級者以上のお話なのに最初から知識だけで悟れるわけもないですしね。
私なんかが思うには、最初はヨーガでサマタ瞑想(集中瞑想)でゾクチェンの言うところのシネーの境地に至って、その後にヴィパッサナー状態に達したらヴェーダンタにしても適用可能になるかと思うのですが、どうも、段階を踏んで成長すると言う観点が薄い... と言いますか、本人たちには明確なのかもしれませんが、どうもわかりにくかったです。
まあ、その話などもおいおい。
意識の虚脱感と軽い恐怖と共に光が滲み出る
朝、3時頃にふと目覚めて体を観察すると、最初は風邪の初期症状かと思いました。
体が少し弱っているような気がしたのですが、熱はありません。
最初は、意識も少し弱っているような気がしました。
ですが、試しに視線を動かしてみるとスローモーションのヴィパッサナー状態は保たれておりましたので基本的な「識」の感覚は動いているようです。ですから、意識がタマスになって認識力が8fpsとかに落ちているわけでもなさそうです。そこは普通のようです。
では、この状態は何でしょう?
意識の虚脱感・・・ と言えばそうですが、無力感、と言い換えてもいいかもしれません。
ですが、上記のようにヴィパッサナー状態が保たれておりますのでタマスの愚鈍などんよりとした感覚に落ち込んでいるというわけでもなさそうです。
おそらくは・・・ エゴの抵抗かな、という気がしております。抵抗が強いと激しい風邪になったり気分がどんよりとしてしまうのかなと。
体も軽く緊張しておりますので、気が付いたら意識的に解除してリラックス状態に戻してあげたりしています。
軽い風邪のような症状ですが、体を観察しておりますとオーラが体の表面でざわついており、そのオーラはまるで光のようです。
そのざわつきは意識と同調しているかのようで、瞑想中のように集中はしておりませんので自然にそよ風で軽く吹かれている雲や霧のような感じになっております。
思えば、昔はこのオーラの感覚は「ざわつき」の「感覚」として認識されておりました。
ですが、今朝は、何故かそれは「光」だと思いました。
スピリチュアルでは「人は光の存在だ」とか「光を感じましょう」とかよく言われていますけれども、理屈ではわかっていても、いまいちピンと来ていませんでしたが、今日は自然に「あ、これは光だ」と識別できました。
おそらくは・・・ エゴの抵抗が少なくなってきて、オーラの中の愚鈍なタマス・無明のような質が減ってきたので体の光が少しずつ滲み出てきているのかな、と、そんな気が致します。
エゴの抵抗は、若干の軽い虚脱感と少しの恐怖と喪失感が伴っている感じですが、それを補うかのごとく光を感じています。
こうなれば、今からどちらへ進むのかは明らかで、光の世界へと進むのだとしたらエゴの抵抗である虚脱感や恐怖や喪失感はきっと一時的なものかな... と思っております。
今は、もうちょっとこの状態で様子を見ます。
特に抵抗するでもなく、きっとこれは良い変化なのですから、このままこの先まで進めればと思います。
体が少し弱っているような気がしたのですが、熱はありません。
最初は、意識も少し弱っているような気がしました。
ですが、試しに視線を動かしてみるとスローモーションのヴィパッサナー状態は保たれておりましたので基本的な「識」の感覚は動いているようです。ですから、意識がタマスになって認識力が8fpsとかに落ちているわけでもなさそうです。そこは普通のようです。
では、この状態は何でしょう?
意識の虚脱感・・・ と言えばそうですが、無力感、と言い換えてもいいかもしれません。
ですが、上記のようにヴィパッサナー状態が保たれておりますのでタマスの愚鈍などんよりとした感覚に落ち込んでいるというわけでもなさそうです。
おそらくは・・・ エゴの抵抗かな、という気がしております。抵抗が強いと激しい風邪になったり気分がどんよりとしてしまうのかなと。
体も軽く緊張しておりますので、気が付いたら意識的に解除してリラックス状態に戻してあげたりしています。
軽い風邪のような症状ですが、体を観察しておりますとオーラが体の表面でざわついており、そのオーラはまるで光のようです。
そのざわつきは意識と同調しているかのようで、瞑想中のように集中はしておりませんので自然にそよ風で軽く吹かれている雲や霧のような感じになっております。
思えば、昔はこのオーラの感覚は「ざわつき」の「感覚」として認識されておりました。
ですが、今朝は、何故かそれは「光」だと思いました。
スピリチュアルでは「人は光の存在だ」とか「光を感じましょう」とかよく言われていますけれども、理屈ではわかっていても、いまいちピンと来ていませんでしたが、今日は自然に「あ、これは光だ」と識別できました。
おそらくは・・・ エゴの抵抗が少なくなってきて、オーラの中の愚鈍なタマス・無明のような質が減ってきたので体の光が少しずつ滲み出てきているのかな、と、そんな気が致します。
エゴの抵抗は、若干の軽い虚脱感と少しの恐怖と喪失感が伴っている感じですが、それを補うかのごとく光を感じています。
こうなれば、今からどちらへ進むのかは明らかで、光の世界へと進むのだとしたらエゴの抵抗である虚脱感や恐怖や喪失感はきっと一時的なものかな... と思っております。
今は、もうちょっとこの状態で様子を見ます。
特に抵抗するでもなく、きっとこれは良い変化なのですから、このままこの先まで進めればと思います。
精神が安定する静かな環境の大切さ
ある程度の成長をすれば環境にさほど左右されなくなるとか言っている人もいますけど、まあ、あまり本気にしない方がいいと思います。基本的には人は環境に左右される生き物です。
同化してしまうと左右されないと言うかその基準にはまり込むので影響されない気がするだけで、成長もしなければ落ちにくい状況になるのかなと思います。
精神的な訓練には自分を変えることが必要で、そのためには静かな環境が必要だと思うわけです。
今の時代は山の中にこもらずに街で修行する時代だとか言う論調が数十年前から流行っていて、ことあるごとにそう言うこと言っている人がいますけど、あまり真に受けない方がいいと思います。
たしかにある程度の成長がなされた後はいいでしょうが、数年間は静かな環境で過ごさなければならない人の方が多いと思います。最初はそんなものです。それが普通です。
思えば、前世の記憶で誰かに相談された際、心安らかに暮らす環境がないことをその人は訴えておりましたが、私はたぶんそのことを十分に理解せずに環境の重要さを抜きにして精神的修行を解いたような気も致します。
その人の修行がうまくいかないことを他の理由に求めてしまっていました。
しかし、今から思えば、それは環境が必要だったのです。そんな簡単な答えであっても、恵まれた環境にいる人は相手の環境への想像力が足りなくなってしまうのだと思います。
であれば、ヨガのアシュラムとかで静かな環境にしばらく暮らすことは有用ですね。
昔も有用さを理解していたかと思いますが、最近になってより実感が湧いてきた気が致します。
同化してしまうと左右されないと言うかその基準にはまり込むので影響されない気がするだけで、成長もしなければ落ちにくい状況になるのかなと思います。
精神的な訓練には自分を変えることが必要で、そのためには静かな環境が必要だと思うわけです。
今の時代は山の中にこもらずに街で修行する時代だとか言う論調が数十年前から流行っていて、ことあるごとにそう言うこと言っている人がいますけど、あまり真に受けない方がいいと思います。
たしかにある程度の成長がなされた後はいいでしょうが、数年間は静かな環境で過ごさなければならない人の方が多いと思います。最初はそんなものです。それが普通です。
思えば、前世の記憶で誰かに相談された際、心安らかに暮らす環境がないことをその人は訴えておりましたが、私はたぶんそのことを十分に理解せずに環境の重要さを抜きにして精神的修行を解いたような気も致します。
その人の修行がうまくいかないことを他の理由に求めてしまっていました。
しかし、今から思えば、それは環境が必要だったのです。そんな簡単な答えであっても、恵まれた環境にいる人は相手の環境への想像力が足りなくなってしまうのだと思います。
であれば、ヨガのアシュラムとかで静かな環境にしばらく暮らすことは有用ですね。
昔も有用さを理解していたかと思いますが、最近になってより実感が湧いてきた気が致します。
テクチュでの観察がヴェーダンタの「知識」に繋がる
ヴェーダンタによって悟りの道を歩んでいる人は、「行為ではなく知識でのみ悟ることができる」とよく言います。
これは、なかなかに謎めいた発言です。
ヴェーダンタを勉強している人は、規律に従って服装や食べ物を選び、聖典を勉強してチャンティングをしてマントラを唱えて「知識」で悟ろうとしていますが、本人は自分たちのことを「修行」しているとは言わず、周囲から「修行している」と言われると「私たちは修行していない」と言いますので外目からは何のことかわかりません。
同様に、ヴェーダンタの人たちは独自のヴェーダンタの瞑想をしたりもしていますが、瞑想では悟りに至らない、と言います。一見、訳がわかりません。悟りに不要なら瞑想なんてしないと思うのですが瞑想はするようです。否定しておいて実際は瞑想をしています。ヴェーダンタ独自の瞑想というものがあるようです。
これはヴェーダンタの教義に則った答弁をしているので、色々と読み替えてあげないといけません。
ここで謎なのは以下の3つです。
・知識
・修行・行為
・瞑想
ヴェーダンタは基本的に「奥義書」であるウパニシャッドを基にしていますので、他人にわかりやすいかどうかは気にしていないようです。それよりもむしろ聖典に基づいた正確さを大切にしているようです。
まず「知識」ですが、辞書には「ある事について理解すること。認識すること。」とあります。これは記憶力の良さだけでなく理解の深さや応用力をも意味していますが、そのような読み方をするとヴェーダンタ的な文章では読み違えると思います。ある意味それは正しくもあるのですが、ひとまずそのようには読まない方がいいと思います。
「知識」と書いてあった場合は、「曇りなく認識すること。ありのままに見ること」と読み替えると良いと思います。
・・・ヴェーダンタを勉強している人がこれを見たら「違う」と言いかねない気もしますが、まあ、そのまま「知識」と読むよりは随分と分かりがよくなると思います。最終的には「知識」そのままで読めばいいとは思いますが、最初から文字通り読んだらよくわからない気が致します。
ヴェーダンタの人たちは物事の本質を確かめようとします。
よく聞く例え話で「ロープと蛇」がありますが、暗闇にあるロープを見て蛇だと勘違いして怖がるのは真実を見ておらず、真実を見ればロープなので、ロープだということが知識だ、というお話はありますが、どうもこの例え話は誤解が多いような気が致します。
このロープの例え話を聞いて理解するポイントは2つあって、1つは「科学のように物事を分析して行けば悟ることができる」「知識を積み上げれば悟ることができる」というところと、もう1つは上記にも書いたように「曇りなく認識すること」という点です。
ヴェーダンタの人はこの両方を言っている気がしますが、私は前者は結果であって、重要なのは後者だと解釈しています。ただ、前者と後者との繋がりを理解するのはなかなか難しい気がしています。前者はロープと蛇のお話そのもので科学の考え方そのもののように見えますが、後者の認識は無視されがちな気も致しますし、ヴェーダンタの論者に聞くと「気付きとかは関係ない。知識だけが必要」とか言われたりしますのでますます混乱しかねません。
ヴェーダンタの人はもしかしたら前者のことだけを言っているのかもしれませんが、私なんかからすれば後者も重要だと解釈しています。
後者に関していえばゾクチェンのテクチュの境地で認識を続ければ物事をよりはっきりと識別するようになり、やがては曇りが完全になくなり、その時に見るものは全てありのままの「知識」になる、ということかな、と思います。
おそらくはほとんどの人、悟っていない人の認識には曇りがあって、「知識」の周囲を覆い隠しています。悟ると曇りが完全に晴れて「知識」が明らかになる、ということだと思います。
ヴェーダンタの人は「知識」だけで悟ることができると言いますけど、私はそれは言い方だけの問題だけであって、確かにテクチュの境地はヴィパッサナーであり観察ですので、それは「行為」とは言いませんので、形式として瞑想していてもそれはテクチュ以前の時のように「行為」とは言い難い面もあります。それでも肉体と意思を伴っておりますのでそれは「行為」と呼んでいいと私なんかは思うのですがヴェーダンタの人は頑なに「行為ではない」と言い、「知識」でのみ悟ることができると主張しますが、私に言わせてみれば同じことです。
修行や行為は「知識」という建前・お題目を抱えたらお題目が大事になってしまっているのかな・・・ という気もしますし、あるいは、単に言い方の問題かもしれません。そこは重要ではないと思います。
瞑想に関しても、ヴェーダンタの人はサマタ瞑想(集中瞑想)を「行為」と呼んで、「知識」の理解を深める瞑想を「行為ではない」と言っていますので、言い方だけの問題かなと思います。まあ、ヴェーダンタの人に対してあんまりこういう指摘はしませんけどね。本人たちがそういう言い方をしているのであれば、それに沿って理解してあげればいいだけのことで、相手の言い方を変える必要は全くないわけですので。私はただ単に理解したいだけですので。
どうも、ヴェーダンタの言っていることは前提としてゾクチェンで言うところのテクチュの境地を求めているような気が致します。
テクチュの境地とは「むきだしの心」の働きである「リクパ」という認識能力が働き始めた状態であるとゾクチェンでは定義しています。
ヴェーダンタは幅広いですし時間がかかるのででそれ以前から勉強していても無駄にはならないと思いますが、本当にヴェーダンタが理解できて面白くなるのはテクチュの境地でリクパ(むきだしの心)が動き出してからかなあ、と言う気もします。
このあたりは分かりにくい気がしますのでもう少し書きます。認識を3段階に分けましょう。
1.ゾクチェンのテクチュ以前の状態。認識が暗闇あるいは雲に包まれている。ロープを蛇と思ってしまう段階。何かを見て他の何かを思い浮かべてしまう状態。ヴェーダンタで言う「知識」が暗闇あるいは厚い雲で覆い隠されている状態。
2.ゾクチェンのテクチュの状態。雲が晴れてきたがまだ完全には晴れていない状態。若干、思い違いをしてしまう段階。いわゆる気付き、アウェアネス、観察、ヴィパッサナーが出てきた状態。ヴェーダンタで言う「知識」が若干の雲で覆い隠されている状態。
3.ゾクチェンのトゥガルの状態。雲がほぼ完全に晴れた状態。物事をありのままに見ることができる状態。ヴェーダンタで言う「知識」が即座に現れてくる段階。
そうであれば、行うべき瞑想も段階によって変わってくると私なんかは思います。
1の段階:集中のサマタ瞑想で心を安定させる段階。ゾクチェンのシネーの境地およびテクチュの境地を目指す段階。
2の段階:ヴィパッサナー瞑想を行い、いわゆる「むきだしの心(リクパ)」で物事を観察し始める段階。
3の段階:ゾクチェンによると2の続きで到達できる。
であれば、ヴェーダンタの言っていることは以下のように解釈できます。
1の段階:ヴェーダンタは「知識」でのみ悟ることができると言ってはいますが、この段階にあってはヴェーダンタは理解できないと思います。であればヴェーダンタは本来の意味の知恵という「知識」ではなく単なる「知っているか知らないか」と言う知識でこの段階では理解されます。それは無駄ではありませんが、この段階では、ヴェーダンタはヴェーダンタの人が言うところの「考える道具」になるのかな、と思います。特殊な用語によるヴェーダンタという世界のフレームワークを頭で理解する段階だと思います。ヴェーダンタの内容を自分の認識で確かめることができないので、「知っているか知らないか」と言う知識に留まるのかなと。それはそれで将来のためあるいは次世代に受け継ぐために無駄ではないとは思いますが、私なんかにしてみれば物足りなく感じます。
2の段階:ヴェーダンタが理解され始める段階。ヴェーダンタの言っていることは、ゾクチェンで言うところの「むきだしの心(リクパ)」で識別可能かなと思います。この段階においては、ヴェーダンタの言う「知識」は「知っているか知らないか」と本来の意味である「ありのままに認識」と言う意味の半々になるのかなと。部分的にヴェーダンタの内容が理解し始める段階かなと。あるいは、物事を「何度か」はっきりと観察することにより「徐々に」知識が現れてくる、まだ弱い知識の段階なのかなと。
3の段階:この段階には私はまだ至っておりませんが、おそらくは、2の段階がもっと素早く起こる状態になるのかなと。物事を何度も見ずとも瞬時に奥深くまで把握して即座に深い「知識」に至ることができる段階なのかなと。そうであれば、もはや「観察」などと言うものは瞬時のもの、あるいは、ほとんど時間を要せずにすぐに「知識」として現れてくるのかなと。
この1の段階と3の段階を比べるとどちらも「知識」であることがわかります。
1の段階では「知っているか知らないか」と言う「知識」で、それは、識別や観察とかとはあまり関係がありません。
一方で、3の段階では「観察・識別」を通り過ぎたところにある、もはや観察・識別が瞬時すぎてあたかも不要かのように見えるほど当たり前になっている状態における「知識」なわけです。
この2つの「知識」はかなり違うものであるのにも関わらず一見すると同じように見えることもあり、どちらも「知識」と表現しているので混乱が生じている気が致します。
・・・まあ、そうは言いましても、ヴェーダンタを勉強した人などそうはいない気がしますので混乱も一部の現象かもしれませんが。
ヴェーダンタの人は「知識」と言いながら1と3をごちゃ混ぜにしているような気が致します。あるいは、表現は正しい筈なのに聞こえ手が間違って解釈しているのかもしれません。
例えば、ヴェーダンタの人は「正しく理解すればそれだけでいい。知識だけで悟ることができる」とか言いますけど、それは3の段階では確かにそうですけど1の段階ではそうはならないわけです。1の段階で得られるのは悟りではなく理解です。
3の段階においては「行動」などは不要で修行も不要です。だって、既に「到達」しているのですから。 ・・・私はまだ到達していないのでここは想像ですけど、おそらくはそうなんじゃないかと思います。
1の段階と3の段階の橋渡しがあるとすれば、それはやはり「修行」であると思うわけです。
しかし、ヴェーダンタの人は「修行なんていらない」と言って、「知識だけあれば悟ることができる」と言いますが.... 私なんかから言わせれば、それは3の段階のお話で、到達した人が「不要」と言ったからと言って、そりゃ、3の段階で不要と思うだけで、それなら1の段階まで降りてきてそう言ってくださいよ、と私なんかは思いますが。悟っている人が悟っていないところまで降りてきて「やっぱり不要でした」と言うのなら納得できますけど、3の段階で「不要です」とか言ってもよく分かりませんし、私は上記のように橋渡しが必要だと思っています。
そもそも、ヴェーダンタの悟った人のお話を読んでいますと、自分がどうして悟ったのかよく分かっていない人が散見されます。
インドの聖者で生まれてその後しばらくして悟った人とか、自分が何をしていて何が大切で何が不要なのかよく分からずに自分にとって不要と言っている人がヴェーダンタの人だったりして、なんだかよく分からない感じです。ヴェーダンタ系のインドの聖者の中には、生まれながらにテクチュの境地でその後すぐに悟っている人もいるような気もしますがどうでしょう。
ですから、私なんかが解釈するには、悟ってしまえばヴェーダンタは当たり前のことなんでしょうけど、悟るための良い手法だとは思えない、と言うところです。
これまでにも何度か書いたように、1から3に至るにはいくつかの段階を経る必要があると思うのです。
その結果、3の段階がヴェーダンタ的に「知識」と言うのならばきっとそれはそうでしょうし、そこは否定はしません。
おそらくは・・・、ヴェーダンタの考え方として「行動は不要」「知識で悟る」と言っているが故に、それが教義と化してしまって本来の修行を修行と呼べずに他の表現で言うしかなくなった、と言う文化的なお話なんじゃないかな、と言う気もしますが... どうでしょう。 やっていることは瞑想にチャンティングに教義に従った食生活などですから、修行そのものだと思うのですが、ヴェーダンタの基本的な考え方と相容れないから他の呼び方をしているだけで、本質的には修行だと私なんかは思います。
例えば、ヴェーダンタのチャンティングは聖典の勉強ってことになっていますけど、古典的なヴェーダンタやサンスクリットの授業では教室に黒板がなくて教科書もなくて先生の発音を集中して聞いて暗記して復唱して... と言うやり方になりますので、それはめちゃくちゃスパルタで集中力を必要とする激しい修行だと思いますけど、どうでしょうか。それは、本人たちは勉強と言っていますけどヨーガの瞑想の集中瞑想(サマタ瞑想)さながらの激しい集中が要求されますので、形は違どもサマタ瞑想をして1番目の段階を修行しているように私なんかには思えます。
そうして極度の集中力を身につけて2番目の段階の観察力に至ってヴェーダンタの教えを理解する、と言うのは手法としては理に叶っているとは思いますが、それが今のこの甘やかされた世の中で本当に可能かどうか.... 古典的なヴェーダンタの教室には黒板もなくて教科書もノートもペンもなくて全部暗記することを要求されますが・・・・ まあ、現代人には無理では? とも思いますが。
私がインドのリシケシでヴェーダンタの先生に教えてもらった時は、その先生はヨーガスートラやバガバッドギータを暗唱できましたけど、その先生ですら現代では教科書を使っていましたし。古典的な手法に従うのならば、教えに直接関係のないところで実は重要な能力を育てていることもある、と言うのが私の見立てですので、もしヴェーダンタの教えに完全に従うのであれば「メモなし」「黒板なし」「教科書なし」「全て暗記」まで古典的なやり方を真似すればきっとそれでも悟れるとは思いますが... そこまでしている人が現代にいるのでしょうか?
現代でもチャンティングはしますしその発音や意味などは勉強しますので、時間をかければ同様の効果があるのかもしれません。それをヴェーダンタの人は勉強と呼びますが、私なんかが見るとそれは修行であると思うのです。1番目の段階であれば修行、2段階以降は修行ではなくなる、と言う解釈もできますが、やはり広義では修行だと思うのです。
そう言うわけで、私なんかが思うには、やはり1から3に至るには修行が必要だと思う次第です。
これは、なかなかに謎めいた発言です。
ヴェーダンタを勉強している人は、規律に従って服装や食べ物を選び、聖典を勉強してチャンティングをしてマントラを唱えて「知識」で悟ろうとしていますが、本人は自分たちのことを「修行」しているとは言わず、周囲から「修行している」と言われると「私たちは修行していない」と言いますので外目からは何のことかわかりません。
同様に、ヴェーダンタの人たちは独自のヴェーダンタの瞑想をしたりもしていますが、瞑想では悟りに至らない、と言います。一見、訳がわかりません。悟りに不要なら瞑想なんてしないと思うのですが瞑想はするようです。否定しておいて実際は瞑想をしています。ヴェーダンタ独自の瞑想というものがあるようです。
これはヴェーダンタの教義に則った答弁をしているので、色々と読み替えてあげないといけません。
ここで謎なのは以下の3つです。
・知識
・修行・行為
・瞑想
ヴェーダンタは基本的に「奥義書」であるウパニシャッドを基にしていますので、他人にわかりやすいかどうかは気にしていないようです。それよりもむしろ聖典に基づいた正確さを大切にしているようです。
まず「知識」ですが、辞書には「ある事について理解すること。認識すること。」とあります。これは記憶力の良さだけでなく理解の深さや応用力をも意味していますが、そのような読み方をするとヴェーダンタ的な文章では読み違えると思います。ある意味それは正しくもあるのですが、ひとまずそのようには読まない方がいいと思います。
「知識」と書いてあった場合は、「曇りなく認識すること。ありのままに見ること」と読み替えると良いと思います。
・・・ヴェーダンタを勉強している人がこれを見たら「違う」と言いかねない気もしますが、まあ、そのまま「知識」と読むよりは随分と分かりがよくなると思います。最終的には「知識」そのままで読めばいいとは思いますが、最初から文字通り読んだらよくわからない気が致します。
ヴェーダンタの人たちは物事の本質を確かめようとします。
よく聞く例え話で「ロープと蛇」がありますが、暗闇にあるロープを見て蛇だと勘違いして怖がるのは真実を見ておらず、真実を見ればロープなので、ロープだということが知識だ、というお話はありますが、どうもこの例え話は誤解が多いような気が致します。
このロープの例え話を聞いて理解するポイントは2つあって、1つは「科学のように物事を分析して行けば悟ることができる」「知識を積み上げれば悟ることができる」というところと、もう1つは上記にも書いたように「曇りなく認識すること」という点です。
ヴェーダンタの人はこの両方を言っている気がしますが、私は前者は結果であって、重要なのは後者だと解釈しています。ただ、前者と後者との繋がりを理解するのはなかなか難しい気がしています。前者はロープと蛇のお話そのもので科学の考え方そのもののように見えますが、後者の認識は無視されがちな気も致しますし、ヴェーダンタの論者に聞くと「気付きとかは関係ない。知識だけが必要」とか言われたりしますのでますます混乱しかねません。
ヴェーダンタの人はもしかしたら前者のことだけを言っているのかもしれませんが、私なんかからすれば後者も重要だと解釈しています。
後者に関していえばゾクチェンのテクチュの境地で認識を続ければ物事をよりはっきりと識別するようになり、やがては曇りが完全になくなり、その時に見るものは全てありのままの「知識」になる、ということかな、と思います。
おそらくはほとんどの人、悟っていない人の認識には曇りがあって、「知識」の周囲を覆い隠しています。悟ると曇りが完全に晴れて「知識」が明らかになる、ということだと思います。
ヴェーダンタの人は「知識」だけで悟ることができると言いますけど、私はそれは言い方だけの問題だけであって、確かにテクチュの境地はヴィパッサナーであり観察ですので、それは「行為」とは言いませんので、形式として瞑想していてもそれはテクチュ以前の時のように「行為」とは言い難い面もあります。それでも肉体と意思を伴っておりますのでそれは「行為」と呼んでいいと私なんかは思うのですがヴェーダンタの人は頑なに「行為ではない」と言い、「知識」でのみ悟ることができると主張しますが、私に言わせてみれば同じことです。
修行や行為は「知識」という建前・お題目を抱えたらお題目が大事になってしまっているのかな・・・ という気もしますし、あるいは、単に言い方の問題かもしれません。そこは重要ではないと思います。
瞑想に関しても、ヴェーダンタの人はサマタ瞑想(集中瞑想)を「行為」と呼んで、「知識」の理解を深める瞑想を「行為ではない」と言っていますので、言い方だけの問題かなと思います。まあ、ヴェーダンタの人に対してあんまりこういう指摘はしませんけどね。本人たちがそういう言い方をしているのであれば、それに沿って理解してあげればいいだけのことで、相手の言い方を変える必要は全くないわけですので。私はただ単に理解したいだけですので。
どうも、ヴェーダンタの言っていることは前提としてゾクチェンで言うところのテクチュの境地を求めているような気が致します。
テクチュの境地とは「むきだしの心」の働きである「リクパ」という認識能力が働き始めた状態であるとゾクチェンでは定義しています。
ヴェーダンタは幅広いですし時間がかかるのででそれ以前から勉強していても無駄にはならないと思いますが、本当にヴェーダンタが理解できて面白くなるのはテクチュの境地でリクパ(むきだしの心)が動き出してからかなあ、と言う気もします。
このあたりは分かりにくい気がしますのでもう少し書きます。認識を3段階に分けましょう。
1.ゾクチェンのテクチュ以前の状態。認識が暗闇あるいは雲に包まれている。ロープを蛇と思ってしまう段階。何かを見て他の何かを思い浮かべてしまう状態。ヴェーダンタで言う「知識」が暗闇あるいは厚い雲で覆い隠されている状態。
2.ゾクチェンのテクチュの状態。雲が晴れてきたがまだ完全には晴れていない状態。若干、思い違いをしてしまう段階。いわゆる気付き、アウェアネス、観察、ヴィパッサナーが出てきた状態。ヴェーダンタで言う「知識」が若干の雲で覆い隠されている状態。
3.ゾクチェンのトゥガルの状態。雲がほぼ完全に晴れた状態。物事をありのままに見ることができる状態。ヴェーダンタで言う「知識」が即座に現れてくる段階。
そうであれば、行うべき瞑想も段階によって変わってくると私なんかは思います。
1の段階:集中のサマタ瞑想で心を安定させる段階。ゾクチェンのシネーの境地およびテクチュの境地を目指す段階。
2の段階:ヴィパッサナー瞑想を行い、いわゆる「むきだしの心(リクパ)」で物事を観察し始める段階。
3の段階:ゾクチェンによると2の続きで到達できる。
であれば、ヴェーダンタの言っていることは以下のように解釈できます。
1の段階:ヴェーダンタは「知識」でのみ悟ることができると言ってはいますが、この段階にあってはヴェーダンタは理解できないと思います。であればヴェーダンタは本来の意味の知恵という「知識」ではなく単なる「知っているか知らないか」と言う知識でこの段階では理解されます。それは無駄ではありませんが、この段階では、ヴェーダンタはヴェーダンタの人が言うところの「考える道具」になるのかな、と思います。特殊な用語によるヴェーダンタという世界のフレームワークを頭で理解する段階だと思います。ヴェーダンタの内容を自分の認識で確かめることができないので、「知っているか知らないか」と言う知識に留まるのかなと。それはそれで将来のためあるいは次世代に受け継ぐために無駄ではないとは思いますが、私なんかにしてみれば物足りなく感じます。
2の段階:ヴェーダンタが理解され始める段階。ヴェーダンタの言っていることは、ゾクチェンで言うところの「むきだしの心(リクパ)」で識別可能かなと思います。この段階においては、ヴェーダンタの言う「知識」は「知っているか知らないか」と本来の意味である「ありのままに認識」と言う意味の半々になるのかなと。部分的にヴェーダンタの内容が理解し始める段階かなと。あるいは、物事を「何度か」はっきりと観察することにより「徐々に」知識が現れてくる、まだ弱い知識の段階なのかなと。
3の段階:この段階には私はまだ至っておりませんが、おそらくは、2の段階がもっと素早く起こる状態になるのかなと。物事を何度も見ずとも瞬時に奥深くまで把握して即座に深い「知識」に至ることができる段階なのかなと。そうであれば、もはや「観察」などと言うものは瞬時のもの、あるいは、ほとんど時間を要せずにすぐに「知識」として現れてくるのかなと。
この1の段階と3の段階を比べるとどちらも「知識」であることがわかります。
1の段階では「知っているか知らないか」と言う「知識」で、それは、識別や観察とかとはあまり関係がありません。
一方で、3の段階では「観察・識別」を通り過ぎたところにある、もはや観察・識別が瞬時すぎてあたかも不要かのように見えるほど当たり前になっている状態における「知識」なわけです。
この2つの「知識」はかなり違うものであるのにも関わらず一見すると同じように見えることもあり、どちらも「知識」と表現しているので混乱が生じている気が致します。
・・・まあ、そうは言いましても、ヴェーダンタを勉強した人などそうはいない気がしますので混乱も一部の現象かもしれませんが。
ヴェーダンタの人は「知識」と言いながら1と3をごちゃ混ぜにしているような気が致します。あるいは、表現は正しい筈なのに聞こえ手が間違って解釈しているのかもしれません。
例えば、ヴェーダンタの人は「正しく理解すればそれだけでいい。知識だけで悟ることができる」とか言いますけど、それは3の段階では確かにそうですけど1の段階ではそうはならないわけです。1の段階で得られるのは悟りではなく理解です。
3の段階においては「行動」などは不要で修行も不要です。だって、既に「到達」しているのですから。 ・・・私はまだ到達していないのでここは想像ですけど、おそらくはそうなんじゃないかと思います。
1の段階と3の段階の橋渡しがあるとすれば、それはやはり「修行」であると思うわけです。
しかし、ヴェーダンタの人は「修行なんていらない」と言って、「知識だけあれば悟ることができる」と言いますが.... 私なんかから言わせれば、それは3の段階のお話で、到達した人が「不要」と言ったからと言って、そりゃ、3の段階で不要と思うだけで、それなら1の段階まで降りてきてそう言ってくださいよ、と私なんかは思いますが。悟っている人が悟っていないところまで降りてきて「やっぱり不要でした」と言うのなら納得できますけど、3の段階で「不要です」とか言ってもよく分かりませんし、私は上記のように橋渡しが必要だと思っています。
そもそも、ヴェーダンタの悟った人のお話を読んでいますと、自分がどうして悟ったのかよく分かっていない人が散見されます。
インドの聖者で生まれてその後しばらくして悟った人とか、自分が何をしていて何が大切で何が不要なのかよく分からずに自分にとって不要と言っている人がヴェーダンタの人だったりして、なんだかよく分からない感じです。ヴェーダンタ系のインドの聖者の中には、生まれながらにテクチュの境地でその後すぐに悟っている人もいるような気もしますがどうでしょう。
ですから、私なんかが解釈するには、悟ってしまえばヴェーダンタは当たり前のことなんでしょうけど、悟るための良い手法だとは思えない、と言うところです。
これまでにも何度か書いたように、1から3に至るにはいくつかの段階を経る必要があると思うのです。
その結果、3の段階がヴェーダンタ的に「知識」と言うのならばきっとそれはそうでしょうし、そこは否定はしません。
おそらくは・・・、ヴェーダンタの考え方として「行動は不要」「知識で悟る」と言っているが故に、それが教義と化してしまって本来の修行を修行と呼べずに他の表現で言うしかなくなった、と言う文化的なお話なんじゃないかな、と言う気もしますが... どうでしょう。 やっていることは瞑想にチャンティングに教義に従った食生活などですから、修行そのものだと思うのですが、ヴェーダンタの基本的な考え方と相容れないから他の呼び方をしているだけで、本質的には修行だと私なんかは思います。
例えば、ヴェーダンタのチャンティングは聖典の勉強ってことになっていますけど、古典的なヴェーダンタやサンスクリットの授業では教室に黒板がなくて教科書もなくて先生の発音を集中して聞いて暗記して復唱して... と言うやり方になりますので、それはめちゃくちゃスパルタで集中力を必要とする激しい修行だと思いますけど、どうでしょうか。それは、本人たちは勉強と言っていますけどヨーガの瞑想の集中瞑想(サマタ瞑想)さながらの激しい集中が要求されますので、形は違どもサマタ瞑想をして1番目の段階を修行しているように私なんかには思えます。
そうして極度の集中力を身につけて2番目の段階の観察力に至ってヴェーダンタの教えを理解する、と言うのは手法としては理に叶っているとは思いますが、それが今のこの甘やかされた世の中で本当に可能かどうか.... 古典的なヴェーダンタの教室には黒板もなくて教科書もノートもペンもなくて全部暗記することを要求されますが・・・・ まあ、現代人には無理では? とも思いますが。
私がインドのリシケシでヴェーダンタの先生に教えてもらった時は、その先生はヨーガスートラやバガバッドギータを暗唱できましたけど、その先生ですら現代では教科書を使っていましたし。古典的な手法に従うのならば、教えに直接関係のないところで実は重要な能力を育てていることもある、と言うのが私の見立てですので、もしヴェーダンタの教えに完全に従うのであれば「メモなし」「黒板なし」「教科書なし」「全て暗記」まで古典的なやり方を真似すればきっとそれでも悟れるとは思いますが... そこまでしている人が現代にいるのでしょうか?
現代でもチャンティングはしますしその発音や意味などは勉強しますので、時間をかければ同様の効果があるのかもしれません。それをヴェーダンタの人は勉強と呼びますが、私なんかが見るとそれは修行であると思うのです。1番目の段階であれば修行、2段階以降は修行ではなくなる、と言う解釈もできますが、やはり広義では修行だと思うのです。
そう言うわけで、私なんかが思うには、やはり1から3に至るには修行が必要だと思う次第です。
せきを切ったかのように喉に流れ込む頭のエネルギー
本日の瞑想中、急に喉に上から下へと流れてくる強いエネルギーを感じ、一体何事かと思いました。観察してみると、エネルギーが頭の上の方から喉を通じて胸の方に流れ込んできて、お腹や下半身の方までじんわりと浸透して行っているではありませんか。その中でも、最も喉に強い感覚がありました。
今までエネルギーが下から上に移動するようなことがあっても、上のエネルギーが下に浸透するなんてことは初めてでびっくりしました。以前に何度か体験したような強烈なクンダリーニ経験とはまた違い、確かなエネルギーの流れではあるのですがじんわりとしたゆっくりとしたエネルギーの流れです。
最初は喉のヴィシュッダチャクラに何かが起こったのかと思ったのですが、どうやらそうではなさそうです。観察してみると、頭の上半分の中の方が、何かが崩れたような、崩壊したようになっていました。まるで、そこにあった岩が幾つかに割れて崩壊したかのようです。その頭の上半分の崩壊と共に、崩壊した割れ目からエネルギーが頭の上から下へと滲み出ているように感じられました。そうして、喉から体の方までエネルギーが降り始めたのでしょう。完全にエネルギーが通るようになったわけではなさそうですが、今までそこにほとんど通っていなかったエネルギーが通り始めたように思います。
これが頭頂より上の方から来ているエネルギーかどうかは分かりません。頭頂の髪の毛がザワザワとした感覚はありますが、頭頂より上には感覚がありませんのでそこから来ているエネルギーなのかもしれませんが、感覚的には、エネルギーは頭の上半分、眉間あたりに忽然と現れてそこから下へと流入しているように感じられます。
今日の瞑想では目を瞑ったまま意識を集中(サマタ)して思考を止めつつ、周囲の観察をしてヴィパッサナー状態を断続的に保っていました。
最近はだるまさんのようなオーラの状態で、眉間など頭の上だけ感覚がなくて、両手で頭の上を支えているようなオーラの感覚がしていました。
それはまるで、中東やアフリカのテレビ番組で見るような、頭の上に水をくむ「かめ」を持った人が両手を頭にあげている姿のようで、瞑想中は両手は膝にのせるか前で組むかしてあぐらをかいているのですが、肉体の手はそのようにしていても、オーラの手で頭の上に手のひら2つを水を組むかあるいは「かめ」を両手で支えるような形にして頭を支えているような感覚がしておりました。
感覚としてはそんな不思議な感じでしたが、ポイントは、頭の上に感覚がない、と言う点と、オーラで頭の上を支えようとしている点です。
ここ数日は食生活と意識および仕事などから来るエネルギー的な若干の詰まりと意識の不調が少しあり、そのエネルギー的な解消もしたいと思って瞑想しておりましたが、具体的にそのための瞑想をしたわけではなく、普通の瞑想をしておけば問題ないと言う判断でした。
今回の現象はもっと根本的なところでエネルギー的な変化が起きたような気が致します。
もしかしたらこれがヨーガで言うところの「ルドラ・グランティ」なのかもしれません。グランティとは体に3つあるエネルギーのブロック・結節で、ルドラ・グランティは頭のアジナ・チャクラの中にあります。今回は一気にそれが解放されたと言うことではなさそうですが、少なくとも、ブロックが解除され始める兆しを感じ取った感じです。じわりじわりとエネルギーが通ってきているのを感じます。
これがルドラ・グランティなのだとすればアジナ・チャクラが活性化される前兆なのかもしれません。まあ、まだ喜ぶのには早いですが。
ひとまずの変化としては意識がよりクリアになって最近のエネルギー的な不調がかなり解消されたと言うことと、ヴィパッサナーのスローモーションの識別力が瞑想前に比べると若干高まったことくらいです。
ですので、今回の出来事が直接的にそのまま大きな変化を意味しているわけでもなさそうですが、前兆としてはなかなかに大きなもののような気が致します。
このあたり、表現で誤解があるかもしれません。この変化が起こる前は十分に元気だと思っていたのですが、変化してみると意外に違う、という感じです。
その数日後に行った瞑想では、空気の圧力のようなものが後頭部のあたりから数分かけて徐々に眉間にまで移動し、眉間に圧力のようなものが集まりました。特に力を入れているわけではありませんが、その圧力のところを意識していたのは確かです。圧力がどこに移動するのか観察していただけで自動的に眉間にまで移動しました。
この動きは、遥か前に「小周天」というものを試していた時に背筋に沿って圧力が移動したのと似ていますし、他の日に瞑想していた時にマニプラあたりからアナハタあるいはヴィシュッダのあたりまで圧力が移動した時の感覚に似ています。
その時の感覚と照らし合わせると、おそらくはまだ開通していないエネルギーのルート、ヨーガ的に言えばナディの開通が徐々になされてきていると解釈できます。
以前は背筋の皮膚の表面だったりもうちょっと体の中の背骨のあたりがその対象だったわけで、その後しばらくしてクンダリーニが動き出したりしたわけですけれども、おそらくは今回も同様で、後頭部から眉間にかけてのルートがまだ開いていなくて少しずつ開通し始めているのだと解釈できます。
眉間にまで移動した後は圧力がその眉間に集まり、その幾分かは分散して喉の方にまで降りていっているような感じです。ですから、最初の時にせきを切ったかのように喉にエネルギーが流れ込んだのはこのルートだったのかなと思います。クンダリーニは下から上に上がるということになっておりますが、今回のエネルギーは逆で、上から下に向かうエネルギーです。クンダリーニの上昇エネルギーは常にありますので、質の違うエネルギーが上から下、下から上とそれぞれあって、各所で混ざり合う感じです。波が上から下に伝わる感じがしています。
ヨーガの概要ではクンダリーニは真っ直ぐ頭上まで上がるということになっておりますが、ヨーガの流派たとえばクリヤヨーガあるいはスピリチュアルの流派によっては眉間から後頭部は主要なエネルギールート(ナディ)があることになっております。例えば「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」によると眉間のあたりはこのようになっています。
同書では「半歩」として壁が描かれておりますがヨーガ的には「グランティ」と呼ばれる主要なエネルギーのブロックでここはルドラ・グランティに相当します。
今回の頭の中での「岩の崩壊」がルドラ・グランティの解放だとしたら、ようやく私の中でこの部分のナディ(エネルギー・ルート)が開通し出したということだと解釈できます。
これにより、眉間の集中が新たな感覚に変わりました。眉間にその「圧力」のようなものが集まり、今までのように「眉間の周囲で支えているが眉間そのものはさほど感覚がなく、時々ざわつく程度」のような感覚から、「眉間そのものが圧力のようなものを保持する」感覚に変わりました。
圧力が定期的に後頭部から時間をかけて眉間にまで移動し、眉間に圧力が溜まってゆく感じです。
以前のと比較してみますと、おそらくは「圧力」と感じている間はまだ十分に開いていない初期の状態かと思われます。十分に開いたら圧力と言うよりはそのあたりが常にエネルギーに満ちた感じになるのかなと。
今後、これを更に観察していきたいと思います。
追記(2021/1/12):どうやらこれはまだそうではなかった模様。グランティは必ずしも3つではなくてヴィシュッダとアナハタの間にあったブロック(主要ではないグランティ)が外れた、と考えるのが妥当のようです。
今までエネルギーが下から上に移動するようなことがあっても、上のエネルギーが下に浸透するなんてことは初めてでびっくりしました。以前に何度か体験したような強烈なクンダリーニ経験とはまた違い、確かなエネルギーの流れではあるのですがじんわりとしたゆっくりとしたエネルギーの流れです。
最初は喉のヴィシュッダチャクラに何かが起こったのかと思ったのですが、どうやらそうではなさそうです。観察してみると、頭の上半分の中の方が、何かが崩れたような、崩壊したようになっていました。まるで、そこにあった岩が幾つかに割れて崩壊したかのようです。その頭の上半分の崩壊と共に、崩壊した割れ目からエネルギーが頭の上から下へと滲み出ているように感じられました。そうして、喉から体の方までエネルギーが降り始めたのでしょう。完全にエネルギーが通るようになったわけではなさそうですが、今までそこにほとんど通っていなかったエネルギーが通り始めたように思います。
これが頭頂より上の方から来ているエネルギーかどうかは分かりません。頭頂の髪の毛がザワザワとした感覚はありますが、頭頂より上には感覚がありませんのでそこから来ているエネルギーなのかもしれませんが、感覚的には、エネルギーは頭の上半分、眉間あたりに忽然と現れてそこから下へと流入しているように感じられます。
今日の瞑想では目を瞑ったまま意識を集中(サマタ)して思考を止めつつ、周囲の観察をしてヴィパッサナー状態を断続的に保っていました。
最近はだるまさんのようなオーラの状態で、眉間など頭の上だけ感覚がなくて、両手で頭の上を支えているようなオーラの感覚がしていました。
それはまるで、中東やアフリカのテレビ番組で見るような、頭の上に水をくむ「かめ」を持った人が両手を頭にあげている姿のようで、瞑想中は両手は膝にのせるか前で組むかしてあぐらをかいているのですが、肉体の手はそのようにしていても、オーラの手で頭の上に手のひら2つを水を組むかあるいは「かめ」を両手で支えるような形にして頭を支えているような感覚がしておりました。
感覚としてはそんな不思議な感じでしたが、ポイントは、頭の上に感覚がない、と言う点と、オーラで頭の上を支えようとしている点です。
ここ数日は食生活と意識および仕事などから来るエネルギー的な若干の詰まりと意識の不調が少しあり、そのエネルギー的な解消もしたいと思って瞑想しておりましたが、具体的にそのための瞑想をしたわけではなく、普通の瞑想をしておけば問題ないと言う判断でした。
今回の現象はもっと根本的なところでエネルギー的な変化が起きたような気が致します。
もしかしたらこれがヨーガで言うところの「ルドラ・グランティ」なのかもしれません。グランティとは体に3つあるエネルギーのブロック・結節で、ルドラ・グランティは頭のアジナ・チャクラの中にあります。今回は一気にそれが解放されたと言うことではなさそうですが、少なくとも、ブロックが解除され始める兆しを感じ取った感じです。じわりじわりとエネルギーが通ってきているのを感じます。
これがルドラ・グランティなのだとすればアジナ・チャクラが活性化される前兆なのかもしれません。まあ、まだ喜ぶのには早いですが。
ひとまずの変化としては意識がよりクリアになって最近のエネルギー的な不調がかなり解消されたと言うことと、ヴィパッサナーのスローモーションの識別力が瞑想前に比べると若干高まったことくらいです。
ですので、今回の出来事が直接的にそのまま大きな変化を意味しているわけでもなさそうですが、前兆としてはなかなかに大きなもののような気が致します。
このあたり、表現で誤解があるかもしれません。この変化が起こる前は十分に元気だと思っていたのですが、変化してみると意外に違う、という感じです。
その数日後に行った瞑想では、空気の圧力のようなものが後頭部のあたりから数分かけて徐々に眉間にまで移動し、眉間に圧力のようなものが集まりました。特に力を入れているわけではありませんが、その圧力のところを意識していたのは確かです。圧力がどこに移動するのか観察していただけで自動的に眉間にまで移動しました。
この動きは、遥か前に「小周天」というものを試していた時に背筋に沿って圧力が移動したのと似ていますし、他の日に瞑想していた時にマニプラあたりからアナハタあるいはヴィシュッダのあたりまで圧力が移動した時の感覚に似ています。
その時の感覚と照らし合わせると、おそらくはまだ開通していないエネルギーのルート、ヨーガ的に言えばナディの開通が徐々になされてきていると解釈できます。
以前は背筋の皮膚の表面だったりもうちょっと体の中の背骨のあたりがその対象だったわけで、その後しばらくしてクンダリーニが動き出したりしたわけですけれども、おそらくは今回も同様で、後頭部から眉間にかけてのルートがまだ開いていなくて少しずつ開通し始めているのだと解釈できます。
眉間にまで移動した後は圧力がその眉間に集まり、その幾分かは分散して喉の方にまで降りていっているような感じです。ですから、最初の時にせきを切ったかのように喉にエネルギーが流れ込んだのはこのルートだったのかなと思います。クンダリーニは下から上に上がるということになっておりますが、今回のエネルギーは逆で、上から下に向かうエネルギーです。クンダリーニの上昇エネルギーは常にありますので、質の違うエネルギーが上から下、下から上とそれぞれあって、各所で混ざり合う感じです。波が上から下に伝わる感じがしています。
ヨーガの概要ではクンダリーニは真っ直ぐ頭上まで上がるということになっておりますが、ヨーガの流派たとえばクリヤヨーガあるいはスピリチュアルの流派によっては眉間から後頭部は主要なエネルギールート(ナディ)があることになっております。例えば「フラワー・オブ・ライフ 第2巻(ドランヴァロ・メルキゼデク著)」によると眉間のあたりはこのようになっています。
同書では「半歩」として壁が描かれておりますがヨーガ的には「グランティ」と呼ばれる主要なエネルギーのブロックでここはルドラ・グランティに相当します。
今回の頭の中での「岩の崩壊」がルドラ・グランティの解放だとしたら、ようやく私の中でこの部分のナディ(エネルギー・ルート)が開通し出したということだと解釈できます。
これにより、眉間の集中が新たな感覚に変わりました。眉間にその「圧力」のようなものが集まり、今までのように「眉間の周囲で支えているが眉間そのものはさほど感覚がなく、時々ざわつく程度」のような感覚から、「眉間そのものが圧力のようなものを保持する」感覚に変わりました。
圧力が定期的に後頭部から時間をかけて眉間にまで移動し、眉間に圧力が溜まってゆく感じです。
以前のと比較してみますと、おそらくは「圧力」と感じている間はまだ十分に開いていない初期の状態かと思われます。十分に開いたら圧力と言うよりはそのあたりが常にエネルギーに満ちた感じになるのかなと。
今後、これを更に観察していきたいと思います。
追記(2021/1/12):どうやらこれはまだそうではなかった模様。グランティは必ずしも3つではなくてヴィシュッダとアナハタの間にあったブロック(主要ではないグランティ)が外れた、と考えるのが妥当のようです。
アジナ・チャクラは二度開く
思えば最初、眉間の皮膚の少し離れたところでの圧縮された空気が解放されて膨張してボンっとエネルギー的に解放された時から始まりました。
その後、エネルギーは下半身に降り、クンダリーニとして上昇、そして、アジナ近くまでエネルギーが満ちてきたかのようです。
おそらくは、アジナ・チャクラは二度開くのではないでしょうか。
最初は割れ目が入り、エネルギーが下半身に降ります。
次は、上昇してきたクンダリーニがアジナ・チャクラを開きます。
そんな予感が致します。まだ確証はないですけど。
以前、クンダリーニは上がるのか下がるのか? の中で引用しましたけど、松果腺(松果体)はいわゆるアジナ・チャクラ(解釈や流派によってはサハスララ)とも言われているところですけれども、松果腺に入って一旦下に降りた後に再度松果腺にまで戻ってくるとすれば、感覚としてはアジナ・チャクラが二度開くと言うような感じになるのかなと思います。
意識がまず霊界から呼び降ろされ、全身に流れ入るということが、人に宿る神がその全能力を顕現する前に必要だということである。「秘教真義(M・ドーリル 著)」
実際のところ、ヨガを初めてすぐの頃からアジナ・チャクラの刺激はずっと続いておりました。
それが実際にいわゆる世間で噂されているアジナ・チャクラが開くことと同義であるのか今までよくわからずにいました。
上に書きましたように眉間で圧力の爆発のようなことも起きましたが、おそらくはそれが最初の開いた経験であり、そこからエネルギーが入ってきて下半身に降り、今再度アジナのあたりが焦点になってきたように思います。
であれば、やがて、本格的にアジナが開いていくのかなと思います。
それが噂されているように本当に超能力の扉を開くかどうかは分かりませんし、それは割とどちらでも良くて、そのような能力より、ただ単に、この先に何があるのかな? と言う自然な歩みに従っている感じです。
その後、エネルギーは下半身に降り、クンダリーニとして上昇、そして、アジナ近くまでエネルギーが満ちてきたかのようです。
おそらくは、アジナ・チャクラは二度開くのではないでしょうか。
最初は割れ目が入り、エネルギーが下半身に降ります。
次は、上昇してきたクンダリーニがアジナ・チャクラを開きます。
そんな予感が致します。まだ確証はないですけど。
以前、クンダリーニは上がるのか下がるのか? の中で引用しましたけど、松果腺(松果体)はいわゆるアジナ・チャクラ(解釈や流派によってはサハスララ)とも言われているところですけれども、松果腺に入って一旦下に降りた後に再度松果腺にまで戻ってくるとすれば、感覚としてはアジナ・チャクラが二度開くと言うような感じになるのかなと思います。
意識がまず霊界から呼び降ろされ、全身に流れ入るということが、人に宿る神がその全能力を顕現する前に必要だということである。「秘教真義(M・ドーリル 著)」
実際のところ、ヨガを初めてすぐの頃からアジナ・チャクラの刺激はずっと続いておりました。
それが実際にいわゆる世間で噂されているアジナ・チャクラが開くことと同義であるのか今までよくわからずにいました。
上に書きましたように眉間で圧力の爆発のようなことも起きましたが、おそらくはそれが最初の開いた経験であり、そこからエネルギーが入ってきて下半身に降り、今再度アジナのあたりが焦点になってきたように思います。
であれば、やがて、本格的にアジナが開いていくのかなと思います。
それが噂されているように本当に超能力の扉を開くかどうかは分かりませんし、それは割とどちらでも良くて、そのような能力より、ただ単に、この先に何があるのかな? と言う自然な歩みに従っている感じです。
視界だけでなく体の動きも細かく感じるヴィパッサナー
まるでロボット・ダンスをしているかのようです。さすがにテレビで見るくらいの凄い動きはできませんけど普段の生活の体の動きが細かくスムーズな挙動として認識されます。
以前は視界だけでしたが、今は腕や体の動きもスムーズに認識されます。まだ全身がそうだと言うわけではありませんが、かなり動きを認識できています。
歩く時。
腕を動かす時。
体の角度を変える時。
特別に意図して意識しなくても意識されるのです。自然な認識です。
2ヶ月前にスローモーションのヴィパッサナー状態が始まった時、主に視界における変化でした。体の感覚も微細に細かく感じられるようにはなりましたが、今日ほどスムーズには認識できてはいなかったように思います。
おそらくは先日のルドラ・グランティかなと思われる意識の変革以降にこのように認識力が高まったような気が致します。
ヴィパッサナー瞑想というと体の感覚を観察する瞑想として理解されることが多いと思います。皮膚の感覚ですとか息を観察することがヴィパッサナー瞑想であるという説明を耳にすることが多いですし、私もかつてはそのように思っておりました。
しかし、今思うのは、意思でわざわざ観察するのは本来のヴィパッサナー瞑想ではないということです。リラックスして意思なくしてヴィパッサナーが自然に自動的に働く状態が本来のヴィパッサナーであって、それはもはや「行動」ではないのです。観察するという「行動」があるうちはそれは本来のヴィパッサナーではなく、観察しているのが結果と言いますか「状態」であるならばそれはヴィパッサナーになり得るのです。この違い、言葉で言い表すのはなかなかに難しいです。
「意思」で「観察しよう」と思っているのは「行動」であり、わざわざ観察しなければ観察できないのだとしたらそれは本来のヴィパッサナーではないということです。
本来のヴィパッサナー状態とは、そのような「意思」なしに観察されるものです。それを「状態」と呼ぶこともできますが、明確な行動としての意思はなくても観察している「なにか」、「見るもの」は存在しています。
理屈としては何かを観察する時は「見るもの」が必要です。それは確かに存在しています。普通に「見るもの」というと「見る対象=見られるもの」が存在しますが、この種のヴィパッサナー状態では「見るもの」も存在するのは確かですが、「見られるもの=見る対象」が「自らと不可分のもの」として感じられるわけです。
通常、人の意識が五感を使って周囲を見たり観察する時はその対象との間に明確な区分が存在します。「見るもの」と「見られるもの」は別物です。
世間一般でよく聞くヴィパッサナー瞑想は五感を使って周囲を観察したり息を観察したり皮膚の感覚を使って観察したりします。そこには、五感を使った「見るもの」と「見る対象」の区別があって、それが一体になることはありません。感覚をずっと観察しているとその読み取る内容が微細になって細かく知ることができるようになりますが、それは本来のヴィパッサナー瞑想ではなく集中して観察しているのですから集中瞑想、サマタ瞑想であると私なんかは思うわけです。
五感を使ったヴィパッサナー瞑想は観察していると言いながら実は集中をして瞑想をしているのですが、それがヴィパッサナー瞑想だと言ってしまうところに混乱があって、観察という言葉を使ってしまうとバイアスが生まれ、「集中」という意義が失われ、意義が失われるだけならばいいのですが、「集中してはいけない」という理解が生まれ、「集中することに対する否定の意識」が生まれているようなヴィパッサナーの流派もあるように思われます。
実際には、ヴィパッサナーと説明されて瞑想をするが実はサマタ瞑想をしているのだということはおそらくはその流派の上級者・グルにとっては当たり前のことではないかなと私なんかは推測しています。ですが、これまた推測ではありますが、サマタ瞑想をしようがヴィパッサナーと称してサマタ瞑想相当をしようがどちらにせよ高い境地に行き着くことはあるし、逆に、これはある種のセンスというところになってしまうのですが、辿り着かない人はどうやっても辿り着かないのだから、まあ、あまり手法をどうこうしてもしょうがない... という境地にグルは達しているのではないかと思います。
ですから、よく言われているように瞑想は色々と手法があって、向き不向きがあるので自分に合ったものをするのがいい、というのは真理なのかなと思います。
私なんかはストレートなのを好みますのでヴィパッサナー瞑想と説明されながら実質はサマタ瞑想をするよりは直接にサマタ瞑想をした方がいいと思うたちです。
ヴィパッサナー瞑想はサマタ瞑想で意思が確かな安定したものになったのちに出てくるもので、上にも書きました通り、その時は対象と自分自身の区別がつかなくなっています。それをヴィパッサナーの流派はヴィパッサナーと呼びますが、ヨーガ系の流派は同じことをサマーディと呼ぶ、という、ただそれだけのことだと思います。
手法としてのヴィパッサナー瞑想はやり方だけのお話であり実質はサマタ瞑想をしているのだとすれば手法を真似ているだけの時はまだサマーディ状態ではないのは明らかです。
ステップ的には以下のようになると思います。
1.サマタ瞑想をして眉間などに集中する、あるいは手法としてヴィパッサナー瞑想を真似て五感を使った観察をして集中する(説明で集中とは言われないかもしれないが実態は集中瞑想・サマタ瞑想)。
2.ヴィパッサナー瞑想に移行する。同じ状態をヨーガの人はサマーディと呼ぶ。
非常に明快でシンプルです。
実際、ヴィパッサナー/サマーディ状態とはサマタ瞑想をして雑多な意識・いわゆるマインド・思考を抑えた時に出てくる状態ですので、五感を使って観察するのとはかなり違った状態になります。
ヴィパッサナーとサマーディが同じだというのは私の解釈です。他所ではほとんど聞いたことがありません。流派が違うのでそのような混ぜた解釈を行っている人はあまりいない気もします。
前にも書きましたが、思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはならないということもありますのでサマタ瞑想をしているだけではヴィパッサナーにそのまま遷移することはなくて、いわゆる浄化が進んでいかないとヴィパッサナーの観察力が出てこないとは思います。
これらを右脳と左脳で解釈されている方もいる気が致します。サマタ瞑想が論理的思考を司る左脳の動きを止めるための瞑想で、左脳の動きが止まった状態を前提として右脳の動きを活性化させ、右脳的な観察力が出てくるとヴィパッサナーになる、という表現もできる気が致します。私はあまりこういう言い方はしませんけど、人によっててはこの方が理解しやすいかもしれません。
サマタ瞑想をしているだけではヴィパッサナー状態にならない、というお話も、左脳の動きを止めるだけで右脳が動きだすとは限らない、という解釈ができます。左脳の動きを止めることに加えて右脳が動きだすと初めてヴィパッサナー状態になるわけです。
以前は視界だけでしたが、今は腕や体の動きもスムーズに認識されます。まだ全身がそうだと言うわけではありませんが、かなり動きを認識できています。
歩く時。
腕を動かす時。
体の角度を変える時。
特別に意図して意識しなくても意識されるのです。自然な認識です。
2ヶ月前にスローモーションのヴィパッサナー状態が始まった時、主に視界における変化でした。体の感覚も微細に細かく感じられるようにはなりましたが、今日ほどスムーズには認識できてはいなかったように思います。
おそらくは先日のルドラ・グランティかなと思われる意識の変革以降にこのように認識力が高まったような気が致します。
ヴィパッサナー瞑想というと体の感覚を観察する瞑想として理解されることが多いと思います。皮膚の感覚ですとか息を観察することがヴィパッサナー瞑想であるという説明を耳にすることが多いですし、私もかつてはそのように思っておりました。
しかし、今思うのは、意思でわざわざ観察するのは本来のヴィパッサナー瞑想ではないということです。リラックスして意思なくしてヴィパッサナーが自然に自動的に働く状態が本来のヴィパッサナーであって、それはもはや「行動」ではないのです。観察するという「行動」があるうちはそれは本来のヴィパッサナーではなく、観察しているのが結果と言いますか「状態」であるならばそれはヴィパッサナーになり得るのです。この違い、言葉で言い表すのはなかなかに難しいです。
「意思」で「観察しよう」と思っているのは「行動」であり、わざわざ観察しなければ観察できないのだとしたらそれは本来のヴィパッサナーではないということです。
本来のヴィパッサナー状態とは、そのような「意思」なしに観察されるものです。それを「状態」と呼ぶこともできますが、明確な行動としての意思はなくても観察している「なにか」、「見るもの」は存在しています。
理屈としては何かを観察する時は「見るもの」が必要です。それは確かに存在しています。普通に「見るもの」というと「見る対象=見られるもの」が存在しますが、この種のヴィパッサナー状態では「見るもの」も存在するのは確かですが、「見られるもの=見る対象」が「自らと不可分のもの」として感じられるわけです。
通常、人の意識が五感を使って周囲を見たり観察する時はその対象との間に明確な区分が存在します。「見るもの」と「見られるもの」は別物です。
世間一般でよく聞くヴィパッサナー瞑想は五感を使って周囲を観察したり息を観察したり皮膚の感覚を使って観察したりします。そこには、五感を使った「見るもの」と「見る対象」の区別があって、それが一体になることはありません。感覚をずっと観察しているとその読み取る内容が微細になって細かく知ることができるようになりますが、それは本来のヴィパッサナー瞑想ではなく集中して観察しているのですから集中瞑想、サマタ瞑想であると私なんかは思うわけです。
五感を使ったヴィパッサナー瞑想は観察していると言いながら実は集中をして瞑想をしているのですが、それがヴィパッサナー瞑想だと言ってしまうところに混乱があって、観察という言葉を使ってしまうとバイアスが生まれ、「集中」という意義が失われ、意義が失われるだけならばいいのですが、「集中してはいけない」という理解が生まれ、「集中することに対する否定の意識」が生まれているようなヴィパッサナーの流派もあるように思われます。
実際には、ヴィパッサナーと説明されて瞑想をするが実はサマタ瞑想をしているのだということはおそらくはその流派の上級者・グルにとっては当たり前のことではないかなと私なんかは推測しています。ですが、これまた推測ではありますが、サマタ瞑想をしようがヴィパッサナーと称してサマタ瞑想相当をしようがどちらにせよ高い境地に行き着くことはあるし、逆に、これはある種のセンスというところになってしまうのですが、辿り着かない人はどうやっても辿り着かないのだから、まあ、あまり手法をどうこうしてもしょうがない... という境地にグルは達しているのではないかと思います。
ですから、よく言われているように瞑想は色々と手法があって、向き不向きがあるので自分に合ったものをするのがいい、というのは真理なのかなと思います。
私なんかはストレートなのを好みますのでヴィパッサナー瞑想と説明されながら実質はサマタ瞑想をするよりは直接にサマタ瞑想をした方がいいと思うたちです。
ヴィパッサナー瞑想はサマタ瞑想で意思が確かな安定したものになったのちに出てくるもので、上にも書きました通り、その時は対象と自分自身の区別がつかなくなっています。それをヴィパッサナーの流派はヴィパッサナーと呼びますが、ヨーガ系の流派は同じことをサマーディと呼ぶ、という、ただそれだけのことだと思います。
手法としてのヴィパッサナー瞑想はやり方だけのお話であり実質はサマタ瞑想をしているのだとすれば手法を真似ているだけの時はまだサマーディ状態ではないのは明らかです。
ステップ的には以下のようになると思います。
1.サマタ瞑想をして眉間などに集中する、あるいは手法としてヴィパッサナー瞑想を真似て五感を使った観察をして集中する(説明で集中とは言われないかもしれないが実態は集中瞑想・サマタ瞑想)。
2.ヴィパッサナー瞑想に移行する。同じ状態をヨーガの人はサマーディと呼ぶ。
非常に明快でシンプルです。
実際、ヴィパッサナー/サマーディ状態とはサマタ瞑想をして雑多な意識・いわゆるマインド・思考を抑えた時に出てくる状態ですので、五感を使って観察するのとはかなり違った状態になります。
ヴィパッサナーとサマーディが同じだというのは私の解釈です。他所ではほとんど聞いたことがありません。流派が違うのでそのような混ぜた解釈を行っている人はあまりいない気もします。
前にも書きましたが、思考を停止させるだけではサマーディ(三昧)にはならないということもありますのでサマタ瞑想をしているだけではヴィパッサナーにそのまま遷移することはなくて、いわゆる浄化が進んでいかないとヴィパッサナーの観察力が出てこないとは思います。
これらを右脳と左脳で解釈されている方もいる気が致します。サマタ瞑想が論理的思考を司る左脳の動きを止めるための瞑想で、左脳の動きが止まった状態を前提として右脳の動きを活性化させ、右脳的な観察力が出てくるとヴィパッサナーになる、という表現もできる気が致します。私はあまりこういう言い方はしませんけど、人によっててはこの方が理解しやすいかもしれません。
サマタ瞑想をしているだけではヴィパッサナー状態にならない、というお話も、左脳の動きを止めるだけで右脳が動きだすとは限らない、という解釈ができます。左脳の動きを止めることに加えて右脳が動きだすと初めてヴィパッサナー状態になるわけです。
ヴィパッサナー瞑想と称してサマタ瞑想を行う人たち
ヴィパッサナーと思考の停止について以前書きましたけど、おそらくはヴィパッサナー瞑想の流派は分かっていながらヴィパッサナー瞑想と称して実質はサマタ瞑想をさせているのだと思われます。
これはおそらく、弟子たちが望むからそうさせているのかな、という気も致します。グル(霊的指導者)がサマタ瞑想をするように弟子に指示する一方で、他の人がヴィパッサナー瞑想をしているのを横目で見ている古参の弟子がサマタ瞑想だけずっとしていることに待ち切れずに要望して、まだ準備が整っていないのにも関わらずこのままではサマタ瞑想もままらないためにヴィパッサナー瞑想と称して弟子たちを満足させて実質はサマタ瞑想を続けさせるというグル(指導者)たちの知恵がかつてあって、今はその形だけが残っているという面もあるのかなあ... と想像致します。
と、言いますのも、私のグループソウル(類魂)の中にかつてインドで霊的グルでスワミだった魂もいるのですが、その時の弟子たちの様子を思い出してみますと、やはり不肖の弟子のはいるもので、それでも、出来が悪くても可愛い弟子にはちょっとした位を与えたりするような情けとでも言いますか同情とでも言いますか、そういうのはあったように思います。その時のスワミは未来を見通せましたので将来的にその弟子がどのくらいの境地まで達することができるかわかりましたので、それも勘案して、この子は今後将来をかけてもこのくらいの境地までしか達することができないので、このくらいで位を与えてあげようか... という気持ちになったこともあったようです。
ですから、瞑想法にしてみても、今はサマタ瞑想だとかヴィパッサナーだとか言われていますけど流派によってはそこまでの区別はなくて、サマタ瞑想でなくてもチャンティング(聖典の詠唱)とかして心を清めれば同じことであるわけです。ですから、ヴィパッサナーをしたいという弟子に対して「そうかそうか。こうしたら良いよ」と伝えて、それが本来のヴィパッサナーとは若干違ったものだとしても弟子の成長のためになるのならば良しとする、グルの愛がそこにあったように思います。
まあ、色々な流派があって、それぞれの事情がありますので全てはわかりませんけど、こういう面もあったのかなと思います。
そして、今は形だけが残っていて、流派によってヴィパッサナー瞑想と言っているけれども実質はサマタ瞑想が行われているような気が致します。
その形を本気にして、サマタ瞑想なしにヴィパッサナーだけをしていればいいと解釈して「集中」をないがしろにしている流派もあるように思いますし、その一方で、全て分かった上でサマタ瞑想をヴィパッサナーと称している流派もあるように思います。
最近入手したテーラワーダ仏教の本には、このあたりの矛盾が如実に現れていました。おそらくはテーラワーダ仏教は全てわかった上であえてサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想だと称している節があると私なんかは思います。私の勝手な解釈ですけど。
例えば、本の最初の方に次のようにあります。
落ち着いた状態、サマーディ(禅定)を整えた上でヴィパッサナー瞑想に入ります。(中略)ヴィパッサナー瞑想は、サマーディ(禅定)状態を前提とする瞑想だということを覚えておいてください。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」
それなのに、実際の具体的な説明のところには以下のように記されています。
ヴィパッサナー瞑想の試みは、「一切の思考を停止する」チャレンジです。思考を停止させる努力によって心のくもりが晴れ、「智慧」があらわれます。智慧は、何か特別な努力によってあらためて育てるものではありません。ヴィパッサナー瞑想によって私たちのなすべきことは、思考、妄想をストップさせることだけなのです。つまり、考えないようにするのです。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」
これ、テーラワーダ仏教はヴィパッサナー瞑想と称していますが、内容的にはサマタ瞑想・集中瞑想そのものです。ヨーガスートラの目的である心理作用の止滅と同じことをヴィパッサナーと称して説明しているように思えるのです。
そうして、テーラワーダ仏教では具体的な方法として、今の瞬間に何が起こっているのかを実況中継する、という方法を示しています。実況中継するということは今の状況に対して具体的に「思考」するということです。心・マインドで文章にして表現を試みるということです。これは五感および心・マインドに集中しないとできませんからヴィパッサナー瞑想ではなくサマタ瞑想・集中瞑想の部類に入ります。それを、おそらくはあえてヴィパッサナー瞑想と称しているように思えるわけです。
実際、最後のQ&Aで「ヴィパッサナー瞑想にはいくつもやり方があるのですか」というセクションにてサマタ瞑想からヴィパッサナー瞑想に入るやり方などが紹介されており、ここを読む限り、この著者はよくわかっている、というエキスパートの印象を受けます。ですから、私は上記のように「あえて」ヴィパッサナー瞑想と称しているのでは、と解釈したのです。
どのように称したところで最初はサマタ瞑想なのですから、やりやすい方法をすれば良いのではないか、と私などは思うのです。
グループソウルのかつてスワミだった魂の意見を聞くと、どうやら、瞑想はある程度のセンスが必要とされるので説明をそのまま受け取ってどう解釈するかは人それぞれであり、どのような説明であろうともセンスのある人は成長するのだから、どの流派であっても弟子にとってはさほどの違いはなく、好みの問題があるだけだ、とのことです。まあ、それはそうだろうなとは思います。
であれば、サマタ瞑想と説明されていてもセンスがあればヴィパッサナーに辿り着くし、逆に、ヴィパッサナーと称してサマタ瞑想を指示されていたとしてもセンスがあれば本質に気がつくわけです。まあ、それはそうだなと思うわけですが・・・。
・・・センスとか言い出した時点で、もう、一般向けには救いがない気がするのは私だけでしょうか。かつてスワミだった魂が言うには、センスがない人に何をやらせても一生成長しないので、もう、こればっかりは仕方がなく、それでも無駄ではないので次の人生に繋げるために何かを続けさせることは有意義だ、とのことでした。まあ、一生涯かけて弟子の面倒を見たスワミだからこそ言える言葉なのかもしれません。
まあ、私もそうだろうなとは思ってはいてもさほど救いがないのであまり口に出したくはありません。スパルタ式で指導したイギリスの過去生というかグループソウルの魂がいたのですが、スパルタ式ならば成長が早いのは確かでしたが、その後、その弟子たちの流派がスパルタを真似して今まで続いていて微妙な感じになってしまっているように思いますのでそれも良くないとは思ってはいます。2つの人生の修行を1つの人生で終わらせるためにはスパルタ式が必要だったわけですが、禍根を残してしまいます。
アシュラムなどでつきっきりで指導するのならばともかく、一般向けに公開するのであればある程度は妥協するしかないのかな、という感じも致します。
かと言って、甘くしてしまったが故にその弟子が今世に至っても未だ同じくらいの境地にしか達することができていないのを見たりすると、やっぱりスパルタすべきだったかな... とも思ったりするようです。
まあ、私は今世ではそんな立場にはありませんので指導の悩みには無縁ですけど。
これはおそらく、弟子たちが望むからそうさせているのかな、という気も致します。グル(霊的指導者)がサマタ瞑想をするように弟子に指示する一方で、他の人がヴィパッサナー瞑想をしているのを横目で見ている古参の弟子がサマタ瞑想だけずっとしていることに待ち切れずに要望して、まだ準備が整っていないのにも関わらずこのままではサマタ瞑想もままらないためにヴィパッサナー瞑想と称して弟子たちを満足させて実質はサマタ瞑想を続けさせるというグル(指導者)たちの知恵がかつてあって、今はその形だけが残っているという面もあるのかなあ... と想像致します。
と、言いますのも、私のグループソウル(類魂)の中にかつてインドで霊的グルでスワミだった魂もいるのですが、その時の弟子たちの様子を思い出してみますと、やはり不肖の弟子のはいるもので、それでも、出来が悪くても可愛い弟子にはちょっとした位を与えたりするような情けとでも言いますか同情とでも言いますか、そういうのはあったように思います。その時のスワミは未来を見通せましたので将来的にその弟子がどのくらいの境地まで達することができるかわかりましたので、それも勘案して、この子は今後将来をかけてもこのくらいの境地までしか達することができないので、このくらいで位を与えてあげようか... という気持ちになったこともあったようです。
ですから、瞑想法にしてみても、今はサマタ瞑想だとかヴィパッサナーだとか言われていますけど流派によってはそこまでの区別はなくて、サマタ瞑想でなくてもチャンティング(聖典の詠唱)とかして心を清めれば同じことであるわけです。ですから、ヴィパッサナーをしたいという弟子に対して「そうかそうか。こうしたら良いよ」と伝えて、それが本来のヴィパッサナーとは若干違ったものだとしても弟子の成長のためになるのならば良しとする、グルの愛がそこにあったように思います。
まあ、色々な流派があって、それぞれの事情がありますので全てはわかりませんけど、こういう面もあったのかなと思います。
そして、今は形だけが残っていて、流派によってヴィパッサナー瞑想と言っているけれども実質はサマタ瞑想が行われているような気が致します。
その形を本気にして、サマタ瞑想なしにヴィパッサナーだけをしていればいいと解釈して「集中」をないがしろにしている流派もあるように思いますし、その一方で、全て分かった上でサマタ瞑想をヴィパッサナーと称している流派もあるように思います。
最近入手したテーラワーダ仏教の本には、このあたりの矛盾が如実に現れていました。おそらくはテーラワーダ仏教は全てわかった上であえてサマタ瞑想をヴィパッサナー瞑想だと称している節があると私なんかは思います。私の勝手な解釈ですけど。
例えば、本の最初の方に次のようにあります。
落ち着いた状態、サマーディ(禅定)を整えた上でヴィパッサナー瞑想に入ります。(中略)ヴィパッサナー瞑想は、サマーディ(禅定)状態を前提とする瞑想だということを覚えておいてください。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」
それなのに、実際の具体的な説明のところには以下のように記されています。
ヴィパッサナー瞑想の試みは、「一切の思考を停止する」チャレンジです。思考を停止させる努力によって心のくもりが晴れ、「智慧」があらわれます。智慧は、何か特別な努力によってあらためて育てるものではありません。ヴィパッサナー瞑想によって私たちのなすべきことは、思考、妄想をストップさせることだけなのです。つまり、考えないようにするのです。「自分を変える気づきの瞑想法(アルボムッレ・スマナサーラ著)」
これ、テーラワーダ仏教はヴィパッサナー瞑想と称していますが、内容的にはサマタ瞑想・集中瞑想そのものです。ヨーガスートラの目的である心理作用の止滅と同じことをヴィパッサナーと称して説明しているように思えるのです。
そうして、テーラワーダ仏教では具体的な方法として、今の瞬間に何が起こっているのかを実況中継する、という方法を示しています。実況中継するということは今の状況に対して具体的に「思考」するということです。心・マインドで文章にして表現を試みるということです。これは五感および心・マインドに集中しないとできませんからヴィパッサナー瞑想ではなくサマタ瞑想・集中瞑想の部類に入ります。それを、おそらくはあえてヴィパッサナー瞑想と称しているように思えるわけです。
実際、最後のQ&Aで「ヴィパッサナー瞑想にはいくつもやり方があるのですか」というセクションにてサマタ瞑想からヴィパッサナー瞑想に入るやり方などが紹介されており、ここを読む限り、この著者はよくわかっている、というエキスパートの印象を受けます。ですから、私は上記のように「あえて」ヴィパッサナー瞑想と称しているのでは、と解釈したのです。
どのように称したところで最初はサマタ瞑想なのですから、やりやすい方法をすれば良いのではないか、と私などは思うのです。
グループソウルのかつてスワミだった魂の意見を聞くと、どうやら、瞑想はある程度のセンスが必要とされるので説明をそのまま受け取ってどう解釈するかは人それぞれであり、どのような説明であろうともセンスのある人は成長するのだから、どの流派であっても弟子にとってはさほどの違いはなく、好みの問題があるだけだ、とのことです。まあ、それはそうだろうなとは思います。
であれば、サマタ瞑想と説明されていてもセンスがあればヴィパッサナーに辿り着くし、逆に、ヴィパッサナーと称してサマタ瞑想を指示されていたとしてもセンスがあれば本質に気がつくわけです。まあ、それはそうだなと思うわけですが・・・。
・・・センスとか言い出した時点で、もう、一般向けには救いがない気がするのは私だけでしょうか。かつてスワミだった魂が言うには、センスがない人に何をやらせても一生成長しないので、もう、こればっかりは仕方がなく、それでも無駄ではないので次の人生に繋げるために何かを続けさせることは有意義だ、とのことでした。まあ、一生涯かけて弟子の面倒を見たスワミだからこそ言える言葉なのかもしれません。
まあ、私もそうだろうなとは思ってはいてもさほど救いがないのであまり口に出したくはありません。スパルタ式で指導したイギリスの過去生というかグループソウルの魂がいたのですが、スパルタ式ならば成長が早いのは確かでしたが、その後、その弟子たちの流派がスパルタを真似して今まで続いていて微妙な感じになってしまっているように思いますのでそれも良くないとは思ってはいます。2つの人生の修行を1つの人生で終わらせるためにはスパルタ式が必要だったわけですが、禍根を残してしまいます。
アシュラムなどでつきっきりで指導するのならばともかく、一般向けに公開するのであればある程度は妥協するしかないのかな、という感じも致します。
かと言って、甘くしてしまったが故にその弟子が今世に至っても未だ同じくらいの境地にしか達することができていないのを見たりすると、やっぱりスパルタすべきだったかな... とも思ったりするようです。
まあ、私は今世ではそんな立場にはありませんので指導の悩みには無縁ですけど。
透視能力者の礼節
・勝手に(相手の運命などを透視して)見ない。
・勝手に(守護霊に)聞かない。
・勝手に(守護霊などと)話さない。
・勝手に(見聞きした内容を、本人、あるいは他の人に)喋らない。
・聞かれていないのに(本人に)答えない。
生まれながらの能力者にこれらの基本的な社会人としてのマナーが欠如している人が散見されますが、よろしいことではありません。生まれつきではない場合は多少は社会人経験も積んでいるでしょうからこのようなことは少ない気も致します。ですが、大切にすべき点は同じです。
まあ、興味本位で近くにいる人のオーラをちょっと見るくらいはついつい見てしまったというくらいで悪気もないのでそれほど咎められることでもありませんが、それでも、あまり良いことではありません。
見るだけならともかく、そのことで本人に何か指摘したりすべきではありません。
これは、基本的な礼節です。
本人はその人生を生きているのですから、本人が気付くまでそのレッスンは続くのです。
それを、上から視点で「こっちだ」というのは本人のレッスンが「やり直し」になってしまう危険性もあるくらいの迷惑な行為で、せっかく守護霊や本人たちが状況を整えて勉強できるようにしたのに透視能力者の余計な一言でセッティングが台無しになってしまうことさえあるのです。
例えるならば、ドラマの撮影のセッティングの場面に無関係な人が映り込んでしまって撮り直しになってしまうような残念なことであるわけです。ドラマの撮影に関わる全員が大迷惑を被るわけです。人は全てそのようなドラマのようなものですから、人の人生に関わる守護霊一同がとてつもない迷惑を被る場合があるのです。場合によっては守護霊に恨まれる場合もあるかもしれません。守護霊と言っても程度がいろいろあって、ちょっと道徳があるくらいの普通の人が死後に守護霊(見習い)になる場合などは恨みを持つ場合があるかもしれませんから注意が必要です。
他人のレッスンはどうであろうと、それを「体験」するまでは終わらないのですから、放っておけばいいのです。勝手に指摘するのは、足を引っ張るようなものです。
一方で、本人の希望でカウンセリングする場合はその時限りで、聞かれた範囲に対して答えるのはOKです。
基本的なルールはビジネスや心理学におけるカウンセリングと同一です。
あくまでも本人が人生の主人公であって、主人公が行き先を決めているのであって他人が指図する必要はないのです。
勝手に指図するとしたらそれはエゴであり、傲慢であり、余計なお世話なのです。
カウンセリングの場合は、あくまでも参考意見として伝えるだけです。本人が最終的な決断を下すわけです。
ただ、スピリチュアルには依存症の人もいて、他人に決めてもらいたい人が一定数いますが、それはあまり良いことではありません。依存症の人に決断をお願いされてもそれは断るべきことだと私なんかは思います。
相談者が依存症であるのならば、自分で決断できるようになるというのがまず解決すべきレッスンかもしれないのです。時には冷たく突き放す必要があるかもしれませんし、決断してくれないからと言って恨まれるかもしれませんが、どちらにせよ、自分で決断することができるこの世界の自由意志の大切さと人間の基本的な意思について理解してもらう必要があるわけです。
カウンセラーや透視能力者は往々にして先を話しがちで指摘しすぎる傾向がありますので、そこは気をつける必要があると思います。
個人的には、スピリチュアルなカウンセリングもそんなに意味はないような気もしております。意味があるとすれば目に見えない世界があることを「確認」するという点や、自分の出した答えが正しいかどうかを「確認」するためには使えるかな、と思っております。最近は主に後者ですね。答えの「確かめ」にスピリチュアルなカウンセラーを使うのはアリだと思います。
スピリチュアルなカウンセラーになって相談を聞くのはそれなりにリスクがあります。求める答えではなかった場合の回答であった場合に恨まれたり、願い事を叶えてくれないとわかると、これまた恨まれたりします(苦笑)
ですから、スピリチュアルなカウンセリングで相談されるのは損な立場だなあ、と思うわけですが・・・ それよりも、一般的な人生の教訓である、例えば仏教の八正道とか説いていた方がよっぽど世の中のためになるのではないかと最近なんかは思います。ヨーガのヤマ・ニヤマのような基本的な道徳ですね。
いくらスピリチュアルに理解があって興味があっても現世利益を追求するのなら意味がなくて、そこから八正道のような基本的な道徳のお話につながらなければスピリチュアルも意味はなくて、むしろ透視なんかなくても八正道がありさえすれば十分なんじゃないかとも最近は思います。
透視能力者は、本質的なところで本当のスピリチュアルの本筋で役立っていないのでは、という気も致します。 本質なのは、やはり八正道のような基本的な部分であると思うのです。
と、いうわけで、透視能力者は礼節をもって、基本的には引っ込んでいるべきだなあ、と私なんかは思うわけです。
・勝手に(守護霊に)聞かない。
・勝手に(守護霊などと)話さない。
・勝手に(見聞きした内容を、本人、あるいは他の人に)喋らない。
・聞かれていないのに(本人に)答えない。
生まれながらの能力者にこれらの基本的な社会人としてのマナーが欠如している人が散見されますが、よろしいことではありません。生まれつきではない場合は多少は社会人経験も積んでいるでしょうからこのようなことは少ない気も致します。ですが、大切にすべき点は同じです。
まあ、興味本位で近くにいる人のオーラをちょっと見るくらいはついつい見てしまったというくらいで悪気もないのでそれほど咎められることでもありませんが、それでも、あまり良いことではありません。
見るだけならともかく、そのことで本人に何か指摘したりすべきではありません。
これは、基本的な礼節です。
本人はその人生を生きているのですから、本人が気付くまでそのレッスンは続くのです。
それを、上から視点で「こっちだ」というのは本人のレッスンが「やり直し」になってしまう危険性もあるくらいの迷惑な行為で、せっかく守護霊や本人たちが状況を整えて勉強できるようにしたのに透視能力者の余計な一言でセッティングが台無しになってしまうことさえあるのです。
例えるならば、ドラマの撮影のセッティングの場面に無関係な人が映り込んでしまって撮り直しになってしまうような残念なことであるわけです。ドラマの撮影に関わる全員が大迷惑を被るわけです。人は全てそのようなドラマのようなものですから、人の人生に関わる守護霊一同がとてつもない迷惑を被る場合があるのです。場合によっては守護霊に恨まれる場合もあるかもしれません。守護霊と言っても程度がいろいろあって、ちょっと道徳があるくらいの普通の人が死後に守護霊(見習い)になる場合などは恨みを持つ場合があるかもしれませんから注意が必要です。
他人のレッスンはどうであろうと、それを「体験」するまでは終わらないのですから、放っておけばいいのです。勝手に指摘するのは、足を引っ張るようなものです。
一方で、本人の希望でカウンセリングする場合はその時限りで、聞かれた範囲に対して答えるのはOKです。
基本的なルールはビジネスや心理学におけるカウンセリングと同一です。
あくまでも本人が人生の主人公であって、主人公が行き先を決めているのであって他人が指図する必要はないのです。
勝手に指図するとしたらそれはエゴであり、傲慢であり、余計なお世話なのです。
カウンセリングの場合は、あくまでも参考意見として伝えるだけです。本人が最終的な決断を下すわけです。
ただ、スピリチュアルには依存症の人もいて、他人に決めてもらいたい人が一定数いますが、それはあまり良いことではありません。依存症の人に決断をお願いされてもそれは断るべきことだと私なんかは思います。
相談者が依存症であるのならば、自分で決断できるようになるというのがまず解決すべきレッスンかもしれないのです。時には冷たく突き放す必要があるかもしれませんし、決断してくれないからと言って恨まれるかもしれませんが、どちらにせよ、自分で決断することができるこの世界の自由意志の大切さと人間の基本的な意思について理解してもらう必要があるわけです。
カウンセラーや透視能力者は往々にして先を話しがちで指摘しすぎる傾向がありますので、そこは気をつける必要があると思います。
個人的には、スピリチュアルなカウンセリングもそんなに意味はないような気もしております。意味があるとすれば目に見えない世界があることを「確認」するという点や、自分の出した答えが正しいかどうかを「確認」するためには使えるかな、と思っております。最近は主に後者ですね。答えの「確かめ」にスピリチュアルなカウンセラーを使うのはアリだと思います。
スピリチュアルなカウンセラーになって相談を聞くのはそれなりにリスクがあります。求める答えではなかった場合の回答であった場合に恨まれたり、願い事を叶えてくれないとわかると、これまた恨まれたりします(苦笑)
ですから、スピリチュアルなカウンセリングで相談されるのは損な立場だなあ、と思うわけですが・・・ それよりも、一般的な人生の教訓である、例えば仏教の八正道とか説いていた方がよっぽど世の中のためになるのではないかと最近なんかは思います。ヨーガのヤマ・ニヤマのような基本的な道徳ですね。
いくらスピリチュアルに理解があって興味があっても現世利益を追求するのなら意味がなくて、そこから八正道のような基本的な道徳のお話につながらなければスピリチュアルも意味はなくて、むしろ透視なんかなくても八正道がありさえすれば十分なんじゃないかとも最近は思います。
透視能力者は、本質的なところで本当のスピリチュアルの本筋で役立っていないのでは、という気も致します。 本質なのは、やはり八正道のような基本的な部分であると思うのです。
と、いうわけで、透視能力者は礼節をもって、基本的には引っ込んでいるべきだなあ、と私なんかは思うわけです。
演劇・芸能が瞑想だという実感
ヴィパッサナー以降、日々の生活が芸の動きのようです。・・・テレビのように見た目よくはできませんのできっと傍目には変わりがないのでしょうが。
手の動きをトレースしてみると弧のような動きがあって、手を回すときはぐるりと体を中心にスムーズに回転します。
・・・まあ、そりゃそうだと言われればそうなんですが、ヴィパッサナー状態ですとその細かな部分をスローモーションに近い状態で感じることができますので、体がロボットのようにうまく動くのがわかって面白いのです。
昔、色々な方が芸能や演劇のことを瞑想だと言っていらっしゃいましたが、確かにそうかなあ、という気が最近は致します。
特別に芸をしなくても、日々の生活の割と普通の動きが既に劇になっているような気も致します。
このあたりはヴィパッサナー状態次第でありますのでヴィパッサナー状態でない時はそうでもないのですが、ヴィパッサナー状態でありさえすれば視界だけでなく体の動きもつぶさに観察することができるわけです。
流石に視界と体の感覚両方をきちんと観察するというわけにはいかなくて、どちらを主に観察するのか選ぶかあるいは半々くらいで過ごしたりしますけど、視界や内的感覚の全てが「じぶんではない」・・・と言うと語弊がありますが、「観察されるもの」として体が存在しているのです。
その「観察されるもの」からしてみたら、体も視界の先にある物体もさほど差がなく、どちらも同じように感じられるのです。
かつて、演劇は最高のスピリチュアルだと言った人がいました。たしか和尚ラジニーシだったような気もしますが、たしかにヴィパッサナーは演劇そのもののような気が致します。当時は「そんなものかな」と20年くらい前に思った記憶がありますが、今思うには、当時は全然今の状態を分かってはいませんでしたね。
ダンスや演劇も、やってみたら結構面白いのかもしれません。日本舞踊なども。
ただ、私はもともとそちらの素養はありませんのでどうかなぁ・・・ という気もしますけど、ジムのダンスくらいならしてみても面白いのかもしれません。以前とは違った感覚を楽しめそうです。
手の動きをトレースしてみると弧のような動きがあって、手を回すときはぐるりと体を中心にスムーズに回転します。
・・・まあ、そりゃそうだと言われればそうなんですが、ヴィパッサナー状態ですとその細かな部分をスローモーションに近い状態で感じることができますので、体がロボットのようにうまく動くのがわかって面白いのです。
昔、色々な方が芸能や演劇のことを瞑想だと言っていらっしゃいましたが、確かにそうかなあ、という気が最近は致します。
特別に芸をしなくても、日々の生活の割と普通の動きが既に劇になっているような気も致します。
このあたりはヴィパッサナー状態次第でありますのでヴィパッサナー状態でない時はそうでもないのですが、ヴィパッサナー状態でありさえすれば視界だけでなく体の動きもつぶさに観察することができるわけです。
流石に視界と体の感覚両方をきちんと観察するというわけにはいかなくて、どちらを主に観察するのか選ぶかあるいは半々くらいで過ごしたりしますけど、視界や内的感覚の全てが「じぶんではない」・・・と言うと語弊がありますが、「観察されるもの」として体が存在しているのです。
その「観察されるもの」からしてみたら、体も視界の先にある物体もさほど差がなく、どちらも同じように感じられるのです。
かつて、演劇は最高のスピリチュアルだと言った人がいました。たしか和尚ラジニーシだったような気もしますが、たしかにヴィパッサナーは演劇そのもののような気が致します。当時は「そんなものかな」と20年くらい前に思った記憶がありますが、今思うには、当時は全然今の状態を分かってはいませんでしたね。
ダンスや演劇も、やってみたら結構面白いのかもしれません。日本舞踊なども。
ただ、私はもともとそちらの素養はありませんのでどうかなぁ・・・ という気もしますけど、ジムのダンスくらいならしてみても面白いのかもしれません。以前とは違った感覚を楽しめそうです。
別々ということが分からなくなることが同一の意識
スピリチュアルやヨーガでは「他者や周囲の物と同一だと感じられる意識の状態になります」と言われたりします。
ヨーガではこの状態のことをサマーディと呼び、スピリチュアルではトランス状態だとか天使と繋がっている状態だとかハイヤーセルフと繋がっている状態だとかキリスト意識だとか様々に表現されていますが、きっとそれらは同じ状態を様々に表現しているのだと思われるのです。
ただ、表現の違いと言えばそうなのかもしれませんが、私の最近のスローモーションのヴィパッサナー状態やサマーディの状態を率直に言い表しますと「同一である」という意識状態ではありません。かと言って「別々だ」という意識状態でもありません。言い表すならば、「同じかどうか分からない。別々かどうかもわからない」という意識状態になっています。これをきっと便宜上「いわゆる同一の意識」としているのかなと思います。
最初は「別々」という意識状態なわけですが、そのうち「いわゆる同一」という意識状態に達します。ただ、それはもともと「別々」だったので「同一」と一応解釈しているだけで、実際はきっと「同一かどうかすらわからない。別々かどうかもわからない」状態であって、それを便宜上「同一」と表現しているに過ぎないと思うのです。
実際にはそれとは別に「同一な気がする」という前段階があって、そこでワンステップ踏んでから「同一(同一か別々かわからない)」の状態に進むわけですが、その前段階はとりあえず置いておいて、ここでは本来の意味における「同一」が実際は「同一か別々かわからない意識」のことなのだと解釈しています。
1.別々
2.同一な気がする(サマーディの前段階)
3.いわゆる同一、サマーディ。同一かどうかすらわからない。別々かどうかもわからない。
自分の実際の意識を観察すると、まず、分離の意識では「別々」は明確にわかります。・・・たぶんわかった筈です。最近はあまり分離の意識にならないので昔の記憶に基づいたことですけど、たぶん、明確に別々だったような気が致します。
次に「同一」というものですけど、既に繋がってしまっているのでどこに切れ目があるのかがわかりません。意識がそこにまで通ってしまっているから同一な気もしますが、同一かと聞かれたらそうかもしれない、というくらいにしか答えられません。自分の体のどこが同一なのかも良くわからないのと同様に、サマーディの状態で周囲のものや人を観察した時に同一か別々なのか良くわからない状態になるのであって、周囲のこれとこれが同一だ、みたいな明確な意識を持てるわけではないと思います。明確な意識というのは分離の意識ですのでそれは「同一」の意識ではないと思います。
意識の状態はクリアですけど、分離しているかどうかという点に関しては非常にわかりにくいと言いますか、その、「良くわからない」という状態そのものが古来から「同一の意識」と呼ばれてきたのかな、と解釈しています。
意識で説明しますとわかりにくいかもしれませんので肉体を例にして説明しますと、例えば自分の体を見てみた時に、肉体の一部が他の一部と同一かどうかを判断することなんて出来ないと思います。どちらもいわゆる「(肉体の)自分」と言われていますが、例えば、右腕と左腕がどちらも「じぶん」であることをどうやったら知ることができるのでしょうか。それは難しい・・・ と言いますか、「良くわからない」「なんとなく同一な気がする」というくらいの認識になるのではないでしょうか。肉体と外を分けて、右腕と左手も両方とも内側だから両方とも自分だ、という理屈は成り立ちますが、ここで言いたいのはそういうことではありません。ここで言いたいのは、サマーディの状態で自分と周囲が同一になることと、自分の体の一部と一部が同一であることは似たような認識になる、ということです。
理屈を抜きにして認識だけを使った場合、自分の体の一部と他の一部が同一であるかどうかは明確に同一であるかどうかは「認識」出来ず、「認識」できるのは「同じかどうかわからない。別々かどうかわからない」という認識になって、それを便宜上「同一」と呼んでいるに過ぎないと思うわけです。
サマーディも、似たようなものです。周囲と明確に「同一」という意識になるのではなく、「同じかどうか分からない。別々かどうかもわからない」という意識になったらそれはサマーディだと思います。言い換えれば、「じぶん」という意識が良くわからなくなったらサマーディと言っても良いかもしれません。
ヨーガではこの状態のことをサマーディと呼び、スピリチュアルではトランス状態だとか天使と繋がっている状態だとかハイヤーセルフと繋がっている状態だとかキリスト意識だとか様々に表現されていますが、きっとそれらは同じ状態を様々に表現しているのだと思われるのです。
ただ、表現の違いと言えばそうなのかもしれませんが、私の最近のスローモーションのヴィパッサナー状態やサマーディの状態を率直に言い表しますと「同一である」という意識状態ではありません。かと言って「別々だ」という意識状態でもありません。言い表すならば、「同じかどうか分からない。別々かどうかもわからない」という意識状態になっています。これをきっと便宜上「いわゆる同一の意識」としているのかなと思います。
最初は「別々」という意識状態なわけですが、そのうち「いわゆる同一」という意識状態に達します。ただ、それはもともと「別々」だったので「同一」と一応解釈しているだけで、実際はきっと「同一かどうかすらわからない。別々かどうかもわからない」状態であって、それを便宜上「同一」と表現しているに過ぎないと思うのです。
実際にはそれとは別に「同一な気がする」という前段階があって、そこでワンステップ踏んでから「同一(同一か別々かわからない)」の状態に進むわけですが、その前段階はとりあえず置いておいて、ここでは本来の意味における「同一」が実際は「同一か別々かわからない意識」のことなのだと解釈しています。
1.別々
2.同一な気がする(サマーディの前段階)
3.いわゆる同一、サマーディ。同一かどうかすらわからない。別々かどうかもわからない。
自分の実際の意識を観察すると、まず、分離の意識では「別々」は明確にわかります。・・・たぶんわかった筈です。最近はあまり分離の意識にならないので昔の記憶に基づいたことですけど、たぶん、明確に別々だったような気が致します。
次に「同一」というものですけど、既に繋がってしまっているのでどこに切れ目があるのかがわかりません。意識がそこにまで通ってしまっているから同一な気もしますが、同一かと聞かれたらそうかもしれない、というくらいにしか答えられません。自分の体のどこが同一なのかも良くわからないのと同様に、サマーディの状態で周囲のものや人を観察した時に同一か別々なのか良くわからない状態になるのであって、周囲のこれとこれが同一だ、みたいな明確な意識を持てるわけではないと思います。明確な意識というのは分離の意識ですのでそれは「同一」の意識ではないと思います。
意識の状態はクリアですけど、分離しているかどうかという点に関しては非常にわかりにくいと言いますか、その、「良くわからない」という状態そのものが古来から「同一の意識」と呼ばれてきたのかな、と解釈しています。
意識で説明しますとわかりにくいかもしれませんので肉体を例にして説明しますと、例えば自分の体を見てみた時に、肉体の一部が他の一部と同一かどうかを判断することなんて出来ないと思います。どちらもいわゆる「(肉体の)自分」と言われていますが、例えば、右腕と左腕がどちらも「じぶん」であることをどうやったら知ることができるのでしょうか。それは難しい・・・ と言いますか、「良くわからない」「なんとなく同一な気がする」というくらいの認識になるのではないでしょうか。肉体と外を分けて、右腕と左手も両方とも内側だから両方とも自分だ、という理屈は成り立ちますが、ここで言いたいのはそういうことではありません。ここで言いたいのは、サマーディの状態で自分と周囲が同一になることと、自分の体の一部と一部が同一であることは似たような認識になる、ということです。
理屈を抜きにして認識だけを使った場合、自分の体の一部と他の一部が同一であるかどうかは明確に同一であるかどうかは「認識」出来ず、「認識」できるのは「同じかどうかわからない。別々かどうかわからない」という認識になって、それを便宜上「同一」と呼んでいるに過ぎないと思うわけです。
サマーディも、似たようなものです。周囲と明確に「同一」という意識になるのではなく、「同じかどうか分からない。別々かどうかもわからない」という意識になったらそれはサマーディだと思います。言い換えれば、「じぶん」という意識が良くわからなくなったらサマーディと言っても良いかもしれません。
意識の集中を解いても発散しない意識
瞑想中、最初は頭の中に集中しました。
それは頭の中にオーラの塊を集めて凝縮あるいは固定させて発散させないように注意している状態ですが、ふと、その集中を解いても平気な気がしました。
その直感に従って集中を少しずつ解いてみました。
すると、実際に頭の中にオーラがほぼその形を保ったまま維持されていたのです。確かに周囲の形は少し崩れた感じですが、基本的な形は保持しています。
ヴィパッサナー状態になってからは意識的に体の緊張を解除してきたわけですけれども、それはあくまでも体の緊張であって、精神的な緊張を解いているわけではありませんでした。
体の緊張は精神的な緊張と繋がっていますので体の緊張を解けば精神的なストレスや緊張も解除されますが、今回のように精神的な緊張あるいは意識的な集中を意図的に解除できたのは初めてでした。
おそらくは体の緊張も精神的な緊張も似たようなものではありますが、その微細さとやりやすさが違うのです。
オーラの塊を集めるのはそれは緊張というよりも発散させないようにして周囲との無意識的な接触を防ぐという意味もありますし、微細な感覚を出しやすくするという意味もあると思います。各種の意図があって、そのために集中ということをしていたわけですが、その集中はそれ自体が目的ではなくてオーラを集めることが目的だったのかなと思います。
今までは集中それ自体が何か意味があるような気がしておりましたが、目的はオーラを凝縮させることであって、集中とはその手段に過ぎないのだとすれば、オーラが十分に凝縮して発散しにくくくなったらその集中を解いてあげても良いのかなと思います。
おそらくは定期的に集中してオーラを凝縮させてあげる必要があるのですが常に集中している必要はなく、意図的に集中したり解除したりしてあげる必要があるのかなと思います。
そのやり方が、肉体の緊張を解くやり方と割と似ていると思うのです。
ヴィパッサナー状態になってまず最初は肉体の緊張を解いて行ったわけですけれども、その同じやり方がオーラの凝縮の際の集中と集中解除とに応用できたわけで、その両者が方法において繋がっていたわけです。
剣術の奥義書に「緊張を解く」「リラックスする」とか書いてあると言いますけど、私は剣術はできませんし奥義書も読んだことありませんので単なる想像になってしまいますけど、それはひょっとしたらこういうことを意味しているのかもしれない、とちょっと思いました。ここは仮説ですけど、それっぽい気もします。
緊張を解くとかリラックスには二段階あって、肉体の緊張を解くというお話と、今回のように精神的な緊張を解くというお話があるのだと思います。
そして、精神的な緊張を解くというお話はオーラの凝縮および意識の改革に更に繋がっていくと思うのですが、この最後のあたりはまだこれから検証していくところで、まだまだ様子見といったところです。
それは頭の中にオーラの塊を集めて凝縮あるいは固定させて発散させないように注意している状態ですが、ふと、その集中を解いても平気な気がしました。
その直感に従って集中を少しずつ解いてみました。
すると、実際に頭の中にオーラがほぼその形を保ったまま維持されていたのです。確かに周囲の形は少し崩れた感じですが、基本的な形は保持しています。
ヴィパッサナー状態になってからは意識的に体の緊張を解除してきたわけですけれども、それはあくまでも体の緊張であって、精神的な緊張を解いているわけではありませんでした。
体の緊張は精神的な緊張と繋がっていますので体の緊張を解けば精神的なストレスや緊張も解除されますが、今回のように精神的な緊張あるいは意識的な集中を意図的に解除できたのは初めてでした。
おそらくは体の緊張も精神的な緊張も似たようなものではありますが、その微細さとやりやすさが違うのです。
オーラの塊を集めるのはそれは緊張というよりも発散させないようにして周囲との無意識的な接触を防ぐという意味もありますし、微細な感覚を出しやすくするという意味もあると思います。各種の意図があって、そのために集中ということをしていたわけですが、その集中はそれ自体が目的ではなくてオーラを集めることが目的だったのかなと思います。
今までは集中それ自体が何か意味があるような気がしておりましたが、目的はオーラを凝縮させることであって、集中とはその手段に過ぎないのだとすれば、オーラが十分に凝縮して発散しにくくくなったらその集中を解いてあげても良いのかなと思います。
おそらくは定期的に集中してオーラを凝縮させてあげる必要があるのですが常に集中している必要はなく、意図的に集中したり解除したりしてあげる必要があるのかなと思います。
そのやり方が、肉体の緊張を解くやり方と割と似ていると思うのです。
ヴィパッサナー状態になってまず最初は肉体の緊張を解いて行ったわけですけれども、その同じやり方がオーラの凝縮の際の集中と集中解除とに応用できたわけで、その両者が方法において繋がっていたわけです。
剣術の奥義書に「緊張を解く」「リラックスする」とか書いてあると言いますけど、私は剣術はできませんし奥義書も読んだことありませんので単なる想像になってしまいますけど、それはひょっとしたらこういうことを意味しているのかもしれない、とちょっと思いました。ここは仮説ですけど、それっぽい気もします。
緊張を解くとかリラックスには二段階あって、肉体の緊張を解くというお話と、今回のように精神的な緊張を解くというお話があるのだと思います。
そして、精神的な緊張を解くというお話はオーラの凝縮および意識の改革に更に繋がっていくと思うのですが、この最後のあたりはまだこれから検証していくところで、まだまだ様子見といったところです。
3つのグナとコーザル体
クリヤヨガは他のヨガの体系と少し異なった理論を展開しているように思います。それによりますと、3つのグナはそれぞれ以下と関連があると言います。
■3つのグナ
タマス:物質・肉体
ラジャス:(神智学で言う)アストラル体、心
サットヴァ:(神智学で言う)コーザル体
「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri 著)」
これに更に、瞑想の境地の対応付けを私の理解に基づいて付け加えます。
■3つのグナと瞑想の境地(私の理解)
タマス:物質・肉体
ラジャス:(神智学で言う)アストラル体、心、ゾクチェンのシネーの境地。精神的な集中。禅定。サマタ瞑想。(一部の)サマーディ
サットヴァ:(神智学で言う)コーザル体、ゾクチェンのテクチュの境地。ヴィパッサナー。(本来の)サマーディ
ヨーガでは3つのグナを超えたところを目指します。一般的にヨーガをしている人はサットヴァな清浄な境地を目指しますが、サットヴァの清浄な状態すら超えたところに更なる境地、いわゆる解脱だとか悟りだとかモクシャ(解放、自由)と言われている境地があると言います。
この、3つのグナを超えた境地はゾクチェンのトゥガルの境地に対応しているのではと思います。いわゆる悟りであるわけですが、悟りというと手に届かないものに思えてしまいますが、こうして段階的に並べてみるとそのステップが明らかになるわけです。
最初はラジャスですのでいわゆるサマタ瞑想で精神的な集中をしてゾクチェンのシネーの境地の平安な状態を目指します。
その後、サットヴァに達したらそれはゾクチェンのテクチュの境地ですので更なる平穏な状態になるわけです。
ゾクチェンに基づきますとテクチュの境地からその先のトゥガルの境地までは一続きですので、ラジャスからサットヴァの境地に上がることができさえすれば着実に悟りだとかモクシャだとか言われている状態に辿り着くと思われるのです。・・・まあ、このあたりはまだ仮説ですが。
最近は言葉が混乱してきて3つのグナとかサットヴァが様々な意味で使われていますので判断が難しいのですが、上記の区分で考えた場合、ゾクチェンのテクチュの境地に相当するサットヴァな意識に到達するのはそれなりにハードルが高いのかなと思われます。それはヴィパッサナーやサマーディと同等の意識状態であるわけですが、なかなかそこまで到達できないような気もします。
そうは言いましても、道は割と単純で、脇道があるようでいてそれほど脇道もなくて、流派がたくさんあるように見えて実際はどれも基本はこの道ですので、実は精神修行というのは基本は凄くシンプルなのではないかなあ、というのが最近の実感です。
人の嗜好に応じて色々試したり好きなものを選べばいいとは思いますけど、そこで鍛えられる根幹の部分は同じのような気が致します。
■3つのグナ
タマス:物質・肉体
ラジャス:(神智学で言う)アストラル体、心
サットヴァ:(神智学で言う)コーザル体
「Kriya yoga Darshan(Swami Shankarananda Giri 著)」
これに更に、瞑想の境地の対応付けを私の理解に基づいて付け加えます。
■3つのグナと瞑想の境地(私の理解)
タマス:物質・肉体
ラジャス:(神智学で言う)アストラル体、心、ゾクチェンのシネーの境地。精神的な集中。禅定。サマタ瞑想。(一部の)サマーディ
サットヴァ:(神智学で言う)コーザル体、ゾクチェンのテクチュの境地。ヴィパッサナー。(本来の)サマーディ
ヨーガでは3つのグナを超えたところを目指します。一般的にヨーガをしている人はサットヴァな清浄な境地を目指しますが、サットヴァの清浄な状態すら超えたところに更なる境地、いわゆる解脱だとか悟りだとかモクシャ(解放、自由)と言われている境地があると言います。
この、3つのグナを超えた境地はゾクチェンのトゥガルの境地に対応しているのではと思います。いわゆる悟りであるわけですが、悟りというと手に届かないものに思えてしまいますが、こうして段階的に並べてみるとそのステップが明らかになるわけです。
最初はラジャスですのでいわゆるサマタ瞑想で精神的な集中をしてゾクチェンのシネーの境地の平安な状態を目指します。
その後、サットヴァに達したらそれはゾクチェンのテクチュの境地ですので更なる平穏な状態になるわけです。
ゾクチェンに基づきますとテクチュの境地からその先のトゥガルの境地までは一続きですので、ラジャスからサットヴァの境地に上がることができさえすれば着実に悟りだとかモクシャだとか言われている状態に辿り着くと思われるのです。・・・まあ、このあたりはまだ仮説ですが。
最近は言葉が混乱してきて3つのグナとかサットヴァが様々な意味で使われていますので判断が難しいのですが、上記の区分で考えた場合、ゾクチェンのテクチュの境地に相当するサットヴァな意識に到達するのはそれなりにハードルが高いのかなと思われます。それはヴィパッサナーやサマーディと同等の意識状態であるわけですが、なかなかそこまで到達できないような気もします。
そうは言いましても、道は割と単純で、脇道があるようでいてそれほど脇道もなくて、流派がたくさんあるように見えて実際はどれも基本はこの道ですので、実は精神修行というのは基本は凄くシンプルなのではないかなあ、というのが最近の実感です。
人の嗜好に応じて色々試したり好きなものを選べばいいとは思いますけど、そこで鍛えられる根幹の部分は同じのような気が致します。
教会は、ただ神だけを説くべきだった
私のグループソウル(類魂)に大航海時代のヴェネチアで大司教だった魂がいますが、その魂は、教会に恐怖という概念を残してしまったことに後悔しているとのことでした。
本来ならば神だけを説くべきだったのに、世相に対して教訓を説いたために恐怖が乗ってしまった、というのです。
日本ではそうでもない気もしますが、ヨーロッパの特にカトリック系の教会では独自の教訓として戒めのお話だとか悪魔の話だとかを聞かせるので、教会や天使・悪魔に対して怖い印象を植え付けられている人がそれなりにいらっしゃいます。
そのことを、とても後悔していました。
・・・まあ、類魂ですので部分的には私の過去生でもあるわけですけれども、確かに、過去の記憶を辿っていきますと、私自身、本当の神を当時はそこまで深く理解していなかったのかもしれない、という気も致します。
それなりに純化されていて聖職者としてやっていくだけの精神状態にあったとしても、本当に神を知るということはなかなか難しいことでありますし、知っていたとしてもその深さを追求していったら限りがありませんし、それを他人に伝えるという点で誤解があったりして難しい面があると思います。
第一に自分自身が純化すべきという点で、当時の教会には部分的にヨーガの知識も入ってきていたような気が致します。当時の司祭たちもヨーガの真似事をして、ヨーガはキリスト教の助けになる、という理解でいたようです。特にヨーガを否定することなく、受け入れていたように思います。
思えば、私の類魂の大司教の一つ前の代の大司教がとても素晴らしい方で、はっきり言って私の類魂よりも素晴らしいと思える方で、誰しもが聖人だと認める輝きを持っており、人格も備わって、街の人々から尊敬されておりました。そんな聖人の後に続いて大司教になったわけですが、前代に対しての比較意識や気負い、新しいことをしなくてはいけないという焦り、あるいは、当時の世相に心を惑わされていた、という面もあったかもしれません。
そんなこともあり、当時、神の教えを説く時に当時の荒れ始めた世相に対して教訓として怖いことを説いたために現代に至るまで教会で恐怖を植えつけてしまうような風潮が残ってしまいました。
今から思えば、ただ神だけを説くべきだったのです。
世相は心惑わす現象であり、そのようなところにコメントしたところで本質的ではなく、心の平安は自分自身の中にあるのだから、心の平安を作るために教会はあるべきだったのです。
もちろん、そのような面もありましたし、祈りもありましたし、聖歌隊も浄化のために役立っていました。
しかし、それと同時に、恐怖という一面を教会に持ち込んでしまったのです。
それが、今日に至るまで特にカトリックの教会で「教訓」と消して恐怖を信者たちに植え込んでしまっており、それが故に天使などの導きを素直に受け取ることができない状況を作ってしまっている、という点について酷く後悔しています。
当時のヴェネチアは大航海時代の終わりを感じる黄昏の時期であり、まだまだ繁栄してはおりましたが商人たちが他の街に進出することで次第に衰退するのが肌に感じられる時代だったように思います。
そんな時代を反映してか、世相は廃退的になり、例えば音楽がクラシックからロックに近い早いテンポのものに変わったり、激しいダンスのようなものが流行したり、落ち着いて生活するのではなく激しく表情を出す風潮に変わっており、それに対して教会は危機感を感じていました。
教会は、そのような廃退的な世相を良くない風潮だと判断しており、もっと落ち着いて、文化的で、精神性の高い暮らしをするように人々を教育したかったのです。精神的に落ち着いた暮らしこそが神の道であると説きたかったのですが、世相に対してコメントしてしまったが故に、本来説きたかったこととは違う印象を与えてしまいました。
その結果として、人々が廃退的な暮らしを反省するのではなく教会や神に対する恐怖心が育ってしまい、それでも教会は尊敬されておりましたが、一部の人の中に拭うことのできないわだかまりが残ってしまったように思います。
教会の説き方として、廃退的な暮らしぶりを指摘してそれは良くないから神の道が好ましい、ということを説明すると、聞き手の方は廃退的な暮らしに対する指摘だけが心に残ってしまってわだかまりが残ってしまったのでした。神を知っていれば廃退的な暮らしが望ましくないと分かるわけですが、既に廃退的な暮らしに片足を突っ込んでいるような人に対して指摘したとしても恐怖心が育つだけのことでした。
これは、うまく教育できなかったこととして後悔になっているわけですが、流石に、廃退的な世相という大きな流れに対して道徳的な生活を呼びかけるというのは焼石に水とでも言いますか、なかなか難しいところではあったようにも思います。
当時の感覚としては、教会がうまく教育できないから人々が廃退的な方に向かってしまっているのだ、と感じておりました。実際そういう面もあったのかもしれませんが、大きな時代の流れだったのかもしれません。
そうして、一部には理解されたものの、多くに恐怖を植え付けてしまったわけですが、やり方としては、それほど良いものではなかったように思います。
当時、廃退的な文化を背景に、神をないがしろにする風潮が既にありました。このような、神をないがしろにする風潮は現代に限ったものではないようです。神は信用できなくて笑い飛ばすものだ、という風潮が既に一部にありました。唯物論の走りだったかもしれません。
一部の廃退的な人たちは、例えばロックに近い踊りを広めて人々を集め、人々が笑顔になるのを見て「これこそが本当の人間の生き方だ」と思いました。それは今も世界中で行われていることです。そうして、聖職者たちの中にも「そうかもしれない」と思う人たちが出て、やがては神の生き方で落ち着いて暮らすよりも、ロックな方を選ぶ人も出てきました。
私の大司教は、しばらくはその風潮を眺めてどういう状況なのか判断を長らく保留しておりましたが、やがて、首謀者らしき人物がかつての聖職者たちを見てニヤニヤした顔つきで見下しているのを発見し、「これは良くない」と判断して廃退的な風潮を更に激しく追求し始めましたが、多くの人々はそれが理解できず、そうこうしているうちにヴェネチアは衰退し、多くの人々がヴェネチアを離れて行きました。
死後しばらくして、ヴェネチアは静かな港町になりました。かつての廃退的なロックも消え失せ、静かな港町になったのです。皮肉なものです。衰退して静かな世界を取り戻したのです。しかし、当時に指摘した風潮は広く世界に広まってしまいました。
今から思うに、やはり、神のみを説くべきだったのです。
そして、神を説くためには自分自身が誰よりも神と共にあるべきだったのです。
他人に何かを伝えるのは難しく、全てを伝えるのは不可能に近いですが、それでも、自分がまず深く理解すれば何分の1かは伝わると思うのです。
その基本に忠実になるべきだったのであって、恐怖だとか教訓だとか、そういうものに頼るべきではなかった、というのが今の元大司教の魂が考えていることのようです。
その後、その大司教の魂はいわゆる「聖者」として認定されているようです。裏を取ろうと思って史実を調べようと思いましたが、良くわかりませんでした。
聖者認定されるには奇跡を起こす必要があって、この場合、死後の葬式の時に誰も動かしていない、直径1mあるかないかの鐘を魂の状態で動かして何度も鳴らすことで奇跡を起こしました。実は鐘というのは振り子の法則が使えますので何度も何度も力をかければ少しずつ動くので、実際のところ、死後に動かしやすいものの1つかなと思います。
その時、同僚たちは私をそれほど聖者とまでは思っていなかったのですが、鐘がなったことにより「おお・・・。○○大司教は聖者だったのか・・・」と認識したようです。
そして、死後の何周忌かの時、おそらく7周忌くらいの時にも同様に鐘を付きました。その時も驚きが起こりましたが、反応としては「○○大司教は我々を見て守って下さっている」という印象だったようです。そして、たしか30周忌くらいにも同様に鐘を鳴らしましたが、この時はこの出来事が予想されていたのか、誰も驚くことなく列席者が並んで静かに頭を垂れて感謝を捧げておりました。
私くらいの魂でもこのくらいのことができますので、意外に「奇跡」というのは敷居が低いのかもしれません。
むしろ、私よりも遥かに悟った人ならば、わざわざそんな奇跡なんて起こさないような気も致します。
それよりも、神を知って神を伝えることの難しさの方が遥かに上のような気が致します。
・・・とは言いましても、瞑想や夢で見たお話ですので本当かどうかはわかりませんが。
本来ならば神だけを説くべきだったのに、世相に対して教訓を説いたために恐怖が乗ってしまった、というのです。
日本ではそうでもない気もしますが、ヨーロッパの特にカトリック系の教会では独自の教訓として戒めのお話だとか悪魔の話だとかを聞かせるので、教会や天使・悪魔に対して怖い印象を植え付けられている人がそれなりにいらっしゃいます。
そのことを、とても後悔していました。
・・・まあ、類魂ですので部分的には私の過去生でもあるわけですけれども、確かに、過去の記憶を辿っていきますと、私自身、本当の神を当時はそこまで深く理解していなかったのかもしれない、という気も致します。
それなりに純化されていて聖職者としてやっていくだけの精神状態にあったとしても、本当に神を知るということはなかなか難しいことでありますし、知っていたとしてもその深さを追求していったら限りがありませんし、それを他人に伝えるという点で誤解があったりして難しい面があると思います。
第一に自分自身が純化すべきという点で、当時の教会には部分的にヨーガの知識も入ってきていたような気が致します。当時の司祭たちもヨーガの真似事をして、ヨーガはキリスト教の助けになる、という理解でいたようです。特にヨーガを否定することなく、受け入れていたように思います。
思えば、私の類魂の大司教の一つ前の代の大司教がとても素晴らしい方で、はっきり言って私の類魂よりも素晴らしいと思える方で、誰しもが聖人だと認める輝きを持っており、人格も備わって、街の人々から尊敬されておりました。そんな聖人の後に続いて大司教になったわけですが、前代に対しての比較意識や気負い、新しいことをしなくてはいけないという焦り、あるいは、当時の世相に心を惑わされていた、という面もあったかもしれません。
そんなこともあり、当時、神の教えを説く時に当時の荒れ始めた世相に対して教訓として怖いことを説いたために現代に至るまで教会で恐怖を植えつけてしまうような風潮が残ってしまいました。
今から思えば、ただ神だけを説くべきだったのです。
世相は心惑わす現象であり、そのようなところにコメントしたところで本質的ではなく、心の平安は自分自身の中にあるのだから、心の平安を作るために教会はあるべきだったのです。
もちろん、そのような面もありましたし、祈りもありましたし、聖歌隊も浄化のために役立っていました。
しかし、それと同時に、恐怖という一面を教会に持ち込んでしまったのです。
それが、今日に至るまで特にカトリックの教会で「教訓」と消して恐怖を信者たちに植え込んでしまっており、それが故に天使などの導きを素直に受け取ることができない状況を作ってしまっている、という点について酷く後悔しています。
当時のヴェネチアは大航海時代の終わりを感じる黄昏の時期であり、まだまだ繁栄してはおりましたが商人たちが他の街に進出することで次第に衰退するのが肌に感じられる時代だったように思います。
そんな時代を反映してか、世相は廃退的になり、例えば音楽がクラシックからロックに近い早いテンポのものに変わったり、激しいダンスのようなものが流行したり、落ち着いて生活するのではなく激しく表情を出す風潮に変わっており、それに対して教会は危機感を感じていました。
教会は、そのような廃退的な世相を良くない風潮だと判断しており、もっと落ち着いて、文化的で、精神性の高い暮らしをするように人々を教育したかったのです。精神的に落ち着いた暮らしこそが神の道であると説きたかったのですが、世相に対してコメントしてしまったが故に、本来説きたかったこととは違う印象を与えてしまいました。
その結果として、人々が廃退的な暮らしを反省するのではなく教会や神に対する恐怖心が育ってしまい、それでも教会は尊敬されておりましたが、一部の人の中に拭うことのできないわだかまりが残ってしまったように思います。
教会の説き方として、廃退的な暮らしぶりを指摘してそれは良くないから神の道が好ましい、ということを説明すると、聞き手の方は廃退的な暮らしに対する指摘だけが心に残ってしまってわだかまりが残ってしまったのでした。神を知っていれば廃退的な暮らしが望ましくないと分かるわけですが、既に廃退的な暮らしに片足を突っ込んでいるような人に対して指摘したとしても恐怖心が育つだけのことでした。
これは、うまく教育できなかったこととして後悔になっているわけですが、流石に、廃退的な世相という大きな流れに対して道徳的な生活を呼びかけるというのは焼石に水とでも言いますか、なかなか難しいところではあったようにも思います。
当時の感覚としては、教会がうまく教育できないから人々が廃退的な方に向かってしまっているのだ、と感じておりました。実際そういう面もあったのかもしれませんが、大きな時代の流れだったのかもしれません。
そうして、一部には理解されたものの、多くに恐怖を植え付けてしまったわけですが、やり方としては、それほど良いものではなかったように思います。
当時、廃退的な文化を背景に、神をないがしろにする風潮が既にありました。このような、神をないがしろにする風潮は現代に限ったものではないようです。神は信用できなくて笑い飛ばすものだ、という風潮が既に一部にありました。唯物論の走りだったかもしれません。
一部の廃退的な人たちは、例えばロックに近い踊りを広めて人々を集め、人々が笑顔になるのを見て「これこそが本当の人間の生き方だ」と思いました。それは今も世界中で行われていることです。そうして、聖職者たちの中にも「そうかもしれない」と思う人たちが出て、やがては神の生き方で落ち着いて暮らすよりも、ロックな方を選ぶ人も出てきました。
私の大司教は、しばらくはその風潮を眺めてどういう状況なのか判断を長らく保留しておりましたが、やがて、首謀者らしき人物がかつての聖職者たちを見てニヤニヤした顔つきで見下しているのを発見し、「これは良くない」と判断して廃退的な風潮を更に激しく追求し始めましたが、多くの人々はそれが理解できず、そうこうしているうちにヴェネチアは衰退し、多くの人々がヴェネチアを離れて行きました。
死後しばらくして、ヴェネチアは静かな港町になりました。かつての廃退的なロックも消え失せ、静かな港町になったのです。皮肉なものです。衰退して静かな世界を取り戻したのです。しかし、当時に指摘した風潮は広く世界に広まってしまいました。
今から思うに、やはり、神のみを説くべきだったのです。
そして、神を説くためには自分自身が誰よりも神と共にあるべきだったのです。
他人に何かを伝えるのは難しく、全てを伝えるのは不可能に近いですが、それでも、自分がまず深く理解すれば何分の1かは伝わると思うのです。
その基本に忠実になるべきだったのであって、恐怖だとか教訓だとか、そういうものに頼るべきではなかった、というのが今の元大司教の魂が考えていることのようです。
その後、その大司教の魂はいわゆる「聖者」として認定されているようです。裏を取ろうと思って史実を調べようと思いましたが、良くわかりませんでした。
聖者認定されるには奇跡を起こす必要があって、この場合、死後の葬式の時に誰も動かしていない、直径1mあるかないかの鐘を魂の状態で動かして何度も鳴らすことで奇跡を起こしました。実は鐘というのは振り子の法則が使えますので何度も何度も力をかければ少しずつ動くので、実際のところ、死後に動かしやすいものの1つかなと思います。
その時、同僚たちは私をそれほど聖者とまでは思っていなかったのですが、鐘がなったことにより「おお・・・。○○大司教は聖者だったのか・・・」と認識したようです。
そして、死後の何周忌かの時、おそらく7周忌くらいの時にも同様に鐘を付きました。その時も驚きが起こりましたが、反応としては「○○大司教は我々を見て守って下さっている」という印象だったようです。そして、たしか30周忌くらいにも同様に鐘を鳴らしましたが、この時はこの出来事が予想されていたのか、誰も驚くことなく列席者が並んで静かに頭を垂れて感謝を捧げておりました。
私くらいの魂でもこのくらいのことができますので、意外に「奇跡」というのは敷居が低いのかもしれません。
むしろ、私よりも遥かに悟った人ならば、わざわざそんな奇跡なんて起こさないような気も致します。
それよりも、神を知って神を伝えることの難しさの方が遥かに上のような気が致します。
・・・とは言いましても、瞑想や夢で見たお話ですので本当かどうかはわかりませんが。
バクティでヴィパッサナー状態に至る
ヨーガではカルマ・ヨガという奉仕の道が推奨されており、その先に礼拝するバクティがあります。カルマヨガで奉仕をするうちに奉仕の対象までもが神格化して現れると言います。
その時、バクティはヴィパッサナー状態のように無心になって対象と自身の区別がつかなくなります。それはサマーディ状態と同じことです。奉仕が主体なしに目的なしに自動的なものになり、必要だから行う、という単純な、それでいて当然のものになります。
そのことを、バクティの人は奉仕だとか神格化だとか礼拝だとか表現しているのかな、と思うのです。
ヨーガでカルマヨガの奉仕をしている人を見ていると、特に最初は迷いが多くて、本当にこんなことをしていて意味があるのだろうか、と思い悩むことがあります。その悩みは当然で、本当の意味を理解していないか、あるいは、きちんと説明されていなかったりするようです。
NPOのボランティアとかですと奉仕や現状へのストレスおよび必然性からの要望がモチベーションになったりしますけど、いわゆるボランティア疲れというものがあって、それはヨーガでのカルマヨガの疲れと共通している部分があるような気が致します。
NPOのボランティアは割と救いがないと言いますか、宗教的な考えなしに無心の心に辿り着くことはなかなかないのではないかと思います。ボランティアで長く続いている人は何がしかの宗教的バックグラウンドがあると思います。あるいは、私なんかはボランティアにしばらく関わり合いましたけど、見た目上は奉仕しているように見せかけて利益を目的にしている団体なんかもありましたね。ですから、NPOは救いがあまりないかな、という気がします。宗教的な思想のバックグラウンドがないとNPOは方向性を見失うと思います。一部はそういう思想があったりしますが、そういうところは海外発祥が多い気が致しました。日本は変なところで唯物思想が蔓延っていますよね。
一方、ヨーガでのカルマヨガの本質は奉仕ではなく、最終的な悟りが目的ですので救いがあります。奉仕を目的にしてしまうと実際、奉仕の対象というのは限りがなくていつまで経っても終わらず、永遠に問題が解消しないというジレンマに陥ってしまいます。NPOはその点、救いがないです。基本的にNPOもカルマヨガも「解決」のない問題に取り組むことが多いですが、NPOは解決できないのに永遠に取り組んでボランティア疲れになって去って行き、一方で、カルマヨガも真実を見出せなければ疲れて去っていきます。それでも、カルマヨガの方には救いがあると思います。
ヴィパッサナー状態に至るためにはいわゆる心を浄化する必要があって、バクティの人は奉仕と集中で浄化するわけです。ラージャヨガの人は瞑想で浄化するわけですけど、割と同じことです。モチベーションとしてどちらを取るかという違いがあるくらいだと思います。
見方によって階梯のつけ方が違っていて、バクティ的に言えば理屈ありの奉仕から無心の奉仕へ、となり、ラージャヨガ的に言えば雑念の多い集中状態から雑念のほとんどない無心の瞑想状態、いわゆるヴィパッサナー・サマーディ状態にどちらにせよ辿り着くわけです。
説明する人によって、瞑想なんて必要ないと言うかもしれませんが、やっていることは割と似通っているように思われるのです。
カルマヨガはその点で救いがありますが、NPOは救いがなくて、ボランティアの無償のパワーをNPOが吸い取ることでNPOが存続するという方程式になっていますからエネルギーがなくなったボランティアは捨てられていきます。一部の親分は自身のエネルギーを無償のボランティアスタッフから頂いて君臨し続けるわけです。まあ、そうではない団体もあるかもしれませんが、私が見てきたのはそういうところが多かったです。それでも、エネルギーをもらい続ければある程度は無償のボランティアスタッフから感化を受けて、最初はボランティアスタッフを使い捨てくらいにしか思っていなかった親分が随分と心変わりすることもあったのは意外でしたが。そういう意味で、ボランティアスタッフは無償活動をしてエネルギーを与えるという役割を果たし、親分はそのような場を提供することで成長をしているのかもしれません。ですが、そうして成長できるのは割と例外的な人だけだったように思います。
NPOもカルマヨガも、最初は「奉仕することで感謝されたい」みたいな単純なところが動機になります。カルマヨガは続きがありますが、NPOはそこで終わりです。でしたらNPOボランティアより普通に仕事したらいいんじゃないかと私なんかは思ってしまいます。普通の経済活動の方がよほど人々を助けるように思います。お金を正当な報酬としてあげられますしね。相手の自尊心も奪いませんし、自立を助けます。
カルマヨガは続きがあって、瞑想もしながら無私の奉仕みたいな境地に至り、それは人によってはヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれている状態なのですが、そこに辿り着き、本当の奉仕の意味を知るわけです。
ボランティアで宗教的意味を語ることがタブー視されている日本のこの状況で、しかも、ことあるごとに著名なNPO活動家が「思想なんかよりもエクセルシートの方が人を救う」と言って唯物論を語るこの現状では、海外のようにボランティアと宗教的意味を結びつけるのは難しいと思います。思想的にとても貧相な日本の状況は、それでも、現状の年寄りの世代が亡くなれば次第に若い世代の感覚で平常感覚を取り戻していくような気も致します。
それを待つこともできるかもしれませんが、既にカルマヨガではそのようなところが解決されていますし、そもそも目的が違っていますから、誰かを助けたいのであればボランティアとか言っていないで普通にお金を使って経済活動をするなりして助ける方がよっぽどためになると思っているのは上に書いた通りです。ボランティアなんて言って自分の行動に制約をかけているだけだと思います。相手のために一番ためになるのが何なのか選択肢を探した時にお金を使って経済活動した方がいいのであればそうすればいいのであって、ボランティアとかいう枠で選択を狭めるのは、ただ単に自分のわがままでしかないかもしれないのです。まあ、ボランティアは私はそんな感じに思っていますけど、ボランティアであれば目的は問題の解決ですが、カルマヨガでは行動を補助として自分が悟ることが目的ですので、似ていてもかなり別物になります。
とは言いましても、悟る人が増えれば究極的にはボランティアで解決したい問題もかなり解決するとは思います。それが本質というものだと思います。ですから、遠回りであったとしてもカルマヨガ等で悟った人を増やした方がいいとは思います。
その時、バクティはヴィパッサナー状態のように無心になって対象と自身の区別がつかなくなります。それはサマーディ状態と同じことです。奉仕が主体なしに目的なしに自動的なものになり、必要だから行う、という単純な、それでいて当然のものになります。
そのことを、バクティの人は奉仕だとか神格化だとか礼拝だとか表現しているのかな、と思うのです。
ヨーガでカルマヨガの奉仕をしている人を見ていると、特に最初は迷いが多くて、本当にこんなことをしていて意味があるのだろうか、と思い悩むことがあります。その悩みは当然で、本当の意味を理解していないか、あるいは、きちんと説明されていなかったりするようです。
NPOのボランティアとかですと奉仕や現状へのストレスおよび必然性からの要望がモチベーションになったりしますけど、いわゆるボランティア疲れというものがあって、それはヨーガでのカルマヨガの疲れと共通している部分があるような気が致します。
NPOのボランティアは割と救いがないと言いますか、宗教的な考えなしに無心の心に辿り着くことはなかなかないのではないかと思います。ボランティアで長く続いている人は何がしかの宗教的バックグラウンドがあると思います。あるいは、私なんかはボランティアにしばらく関わり合いましたけど、見た目上は奉仕しているように見せかけて利益を目的にしている団体なんかもありましたね。ですから、NPOは救いがあまりないかな、という気がします。宗教的な思想のバックグラウンドがないとNPOは方向性を見失うと思います。一部はそういう思想があったりしますが、そういうところは海外発祥が多い気が致しました。日本は変なところで唯物思想が蔓延っていますよね。
一方、ヨーガでのカルマヨガの本質は奉仕ではなく、最終的な悟りが目的ですので救いがあります。奉仕を目的にしてしまうと実際、奉仕の対象というのは限りがなくていつまで経っても終わらず、永遠に問題が解消しないというジレンマに陥ってしまいます。NPOはその点、救いがないです。基本的にNPOもカルマヨガも「解決」のない問題に取り組むことが多いですが、NPOは解決できないのに永遠に取り組んでボランティア疲れになって去って行き、一方で、カルマヨガも真実を見出せなければ疲れて去っていきます。それでも、カルマヨガの方には救いがあると思います。
ヴィパッサナー状態に至るためにはいわゆる心を浄化する必要があって、バクティの人は奉仕と集中で浄化するわけです。ラージャヨガの人は瞑想で浄化するわけですけど、割と同じことです。モチベーションとしてどちらを取るかという違いがあるくらいだと思います。
見方によって階梯のつけ方が違っていて、バクティ的に言えば理屈ありの奉仕から無心の奉仕へ、となり、ラージャヨガ的に言えば雑念の多い集中状態から雑念のほとんどない無心の瞑想状態、いわゆるヴィパッサナー・サマーディ状態にどちらにせよ辿り着くわけです。
説明する人によって、瞑想なんて必要ないと言うかもしれませんが、やっていることは割と似通っているように思われるのです。
カルマヨガはその点で救いがありますが、NPOは救いがなくて、ボランティアの無償のパワーをNPOが吸い取ることでNPOが存続するという方程式になっていますからエネルギーがなくなったボランティアは捨てられていきます。一部の親分は自身のエネルギーを無償のボランティアスタッフから頂いて君臨し続けるわけです。まあ、そうではない団体もあるかもしれませんが、私が見てきたのはそういうところが多かったです。それでも、エネルギーをもらい続ければある程度は無償のボランティアスタッフから感化を受けて、最初はボランティアスタッフを使い捨てくらいにしか思っていなかった親分が随分と心変わりすることもあったのは意外でしたが。そういう意味で、ボランティアスタッフは無償活動をしてエネルギーを与えるという役割を果たし、親分はそのような場を提供することで成長をしているのかもしれません。ですが、そうして成長できるのは割と例外的な人だけだったように思います。
NPOもカルマヨガも、最初は「奉仕することで感謝されたい」みたいな単純なところが動機になります。カルマヨガは続きがありますが、NPOはそこで終わりです。でしたらNPOボランティアより普通に仕事したらいいんじゃないかと私なんかは思ってしまいます。普通の経済活動の方がよほど人々を助けるように思います。お金を正当な報酬としてあげられますしね。相手の自尊心も奪いませんし、自立を助けます。
カルマヨガは続きがあって、瞑想もしながら無私の奉仕みたいな境地に至り、それは人によってはヴィパッサナーあるいはサマーディと呼ばれている状態なのですが、そこに辿り着き、本当の奉仕の意味を知るわけです。
ボランティアで宗教的意味を語ることがタブー視されている日本のこの状況で、しかも、ことあるごとに著名なNPO活動家が「思想なんかよりもエクセルシートの方が人を救う」と言って唯物論を語るこの現状では、海外のようにボランティアと宗教的意味を結びつけるのは難しいと思います。思想的にとても貧相な日本の状況は、それでも、現状の年寄りの世代が亡くなれば次第に若い世代の感覚で平常感覚を取り戻していくような気も致します。
それを待つこともできるかもしれませんが、既にカルマヨガではそのようなところが解決されていますし、そもそも目的が違っていますから、誰かを助けたいのであればボランティアとか言っていないで普通にお金を使って経済活動をするなりして助ける方がよっぽどためになると思っているのは上に書いた通りです。ボランティアなんて言って自分の行動に制約をかけているだけだと思います。相手のために一番ためになるのが何なのか選択肢を探した時にお金を使って経済活動した方がいいのであればそうすればいいのであって、ボランティアとかいう枠で選択を狭めるのは、ただ単に自分のわがままでしかないかもしれないのです。まあ、ボランティアは私はそんな感じに思っていますけど、ボランティアであれば目的は問題の解決ですが、カルマヨガでは行動を補助として自分が悟ることが目的ですので、似ていてもかなり別物になります。
とは言いましても、悟る人が増えれば究極的にはボランティアで解決したい問題もかなり解決するとは思います。それが本質というものだと思います。ですから、遠回りであったとしてもカルマヨガ等で悟った人を増やした方がいいとは思います。
信仰心とは信じることではなく疑わない心
よく「信じなさい」とか宗教で言われていますけど、私にはそれがどういうことなのかわかりません。信じて何かが変わるとも思えません。確かな教えがあって、それを信じなさいと言うのですが、教えは概ね正しいとは思ったりもしますが、信じるのではなく納得するものだと思うのです。
納得した上で、疑わなくなるのです。
その最終的な状態を信仰心と呼ぶのであれば、それはきっとそうなのでしょう。
しかし、教えがあるから信じなさい、と言うのはちょっと違う気が致します。
ですから、信仰心があるからと言って宗教とはちょっと違うと思うのです。
例えば、山岳信仰があるからと言ってそれが宗教とは限らないでしょう。
自然崇拝みたいな考え方はどこにでもあって、それが宗教とは限らないわけです。
それが迷信だとか言われたりしますけど、迷信というよりもむしろ、納得した上で疑わなくなる心が崇拝や信仰を生み出すと思うのです。
ですから、そのようにして生まれた信仰心が必ずしも宗教とは限らないわけです。
個人的には団体のみならずそのような信仰心も含めて全て宗教だと思っていますが、一般的に宗教というと団体のことを指すわけです。
ヨーガとかでも、信じなさいとは言っていません。教えを一つづつ確かめなさい、とヨーガでは言われていて、その結果、疑わなくなってくるのです。それを信仰心と言えばそうかもしれませんし、ヨーガは自身のことを宗教ではないと言っていますが、このように信仰心のことだけを取り上げてみると個人的には宗教と言っても良いのではないかなと思ったりもします。
個人的には精神修行の分野は全て宗教みたいなものだと思っていますからヨーガも神道も修験道も全て宗教みたいなものだと思ってはいますが、その中でも、信仰心の取り扱いについて様々だと思います。
信じれば救われる、と言っている宗派もあれば自分で確かめて確信を持ちなさい、と言っている宗派もあって、色々です。
ですがまあ、個人的には「信じれば救われる」というのはよくわからなくて、このように、確かめた上で疑わなくなる、という文脈において信仰心を捉えています。
納得した上で、疑わなくなるのです。
その最終的な状態を信仰心と呼ぶのであれば、それはきっとそうなのでしょう。
しかし、教えがあるから信じなさい、と言うのはちょっと違う気が致します。
ですから、信仰心があるからと言って宗教とはちょっと違うと思うのです。
例えば、山岳信仰があるからと言ってそれが宗教とは限らないでしょう。
自然崇拝みたいな考え方はどこにでもあって、それが宗教とは限らないわけです。
それが迷信だとか言われたりしますけど、迷信というよりもむしろ、納得した上で疑わなくなる心が崇拝や信仰を生み出すと思うのです。
ですから、そのようにして生まれた信仰心が必ずしも宗教とは限らないわけです。
個人的には団体のみならずそのような信仰心も含めて全て宗教だと思っていますが、一般的に宗教というと団体のことを指すわけです。
ヨーガとかでも、信じなさいとは言っていません。教えを一つづつ確かめなさい、とヨーガでは言われていて、その結果、疑わなくなってくるのです。それを信仰心と言えばそうかもしれませんし、ヨーガは自身のことを宗教ではないと言っていますが、このように信仰心のことだけを取り上げてみると個人的には宗教と言っても良いのではないかなと思ったりもします。
個人的には精神修行の分野は全て宗教みたいなものだと思っていますからヨーガも神道も修験道も全て宗教みたいなものだと思ってはいますが、その中でも、信仰心の取り扱いについて様々だと思います。
信じれば救われる、と言っている宗派もあれば自分で確かめて確信を持ちなさい、と言っている宗派もあって、色々です。
ですがまあ、個人的には「信じれば救われる」というのはよくわからなくて、このように、確かめた上で疑わなくなる、という文脈において信仰心を捉えています。
頭から体の前を通ってお腹までエネルギーのルートが通る
最近の瞑想は集中というより凝縮という化学反応になってきています
かなり以前は瞑想をする際に、例えば眉間であるとかお腹であるとか胸などに集中をした場合、心の動きを押さえつける役割としての集中でした。
最近の、特にテクチュっぽい境地になってからの集中は、意識は集中するのですが、それよりも「集める」という方が正しいものになってきています。
ただ、特別に「集めよう」と意識しているわけではありません。
意識を、例えば眉間に集中して・・・ と言いますか、単に意識を眉間に「置く」というくらいの感覚ですが、そのように意識を眉間に置いた場合、瞑想を始めるとすぐに周囲のオーラが規則性を持って安定し始めます。・・・そんな気がしてきます。
そうして30分とかもう少しか瞑想を続けていますと、意識はそのままなのですが、急激にオーラが眉間のあたりに凝縮されてくるのを感じます。特別にそのように動くように意識したわけでもありませんが、意識を眉間に置いておく状態、いわゆる集中という状態を続けますと、そのように、意識というかオーラのようなものが眉間および体の内側に沿った形で、特に眉間や胸のあたりに凝縮されることがわかるのです。分かる、と言っても良いですし、感じる、と表現しても同じことです。感じて、分かるのです。
例えるならば、流しやプールに入った水と排水溝があった時、排水溝から少しだけ水を下に流すと、排水溝のあるところを中心にして水が渦巻きのように回転し始めます。遠くに葉っぱを浮かべてもゆっくりゆっくりとしか動きません。葉っぱが排水溝に近づくと急に動きが早くなって排水溝に勢いよく流れ込んでいきます。それと同じで、瞑想を初めて30分くらいはゆっくりとしか動かないのですが、最後は急激に凝縮するのです。
そのようにして最近は瞑想を続けていたわけですが、その凝縮した感覚で瞑想を続けていますと、やがて、そのエネルギーが飽和して近くに流れ始めました。
最初は、眉間から下方向に流れて喉に入り、胸の前を通ってお腹のあたりまで届きました。そして、ムーラダーラのある会陰のあたりも脈打って反応してエネルギーが通じているのを感じたのです。
かなり以前にクンダリーニのエネルギーが解放されてマニプラやアナハタのエネルギーがそれぞれ優勢になった段階においては、特別に前とか後ろとかそのようなことを意識はしておりませんでした。その際は、体の内部がエネルギーに満ちた感じをしており、今もそれは変わらないのですが、今回は、その体の内部に満ちたエネルギーとは独立して体の前面にエネルギーのルートが通ったような気が致します。
まず最初にそうして眉間のアジナから喉のヴィシュッダ、そして胸のアナハタの前面、そしてマニプラ。マニプラは前面と言うより内部な感じでした。そして会陰のムーラダーラもいつも通りの内部な感じでした。
ですから、今回新たにエネルギーが通ったルートは眉間のアジナからマニプラまでの前面ルートだったと解釈して良いと思います。アジナからアナハタまでは前面、アナハタからマニプラにかけては上半分が前面で下半分が斜めに横切って内部のマニプラに接続されているような感じでした。
そして、それだけでなく、アジナから後頭部にかけて真っ直ぐ伸びるルートおよび後頭部から頭頂に向かってのルートも更に活性化してきたように思います。少し前に頭の頭頂が割れたような感じになったところからエネルギーの交換がされているような感じです。頭頂だからといってそれがサハスララとは限りませんが、まあ、頭頂の感覚があります。
これで、基本的な部分に関しては頭頂から前面を通って下半身までルートが通ったように思います。
今は体の中はポカポカしていますし、今回のことで前面にもエネルギーが通り始めましたが、背後に関してはそれほど明確なエネルギー・ルートがありません。背後についてはまだまだ様子見と言ったところです。
それでも、とりあえず小周天あるいは大周天っぽい真似事でぐるりとエネルギーを回転させてみましたらそれなりに通りました。眉間から体の前面を通って下半身にたどり着いた後、背後というよりは体の中の背骨のあたり半径10cm前後の大きさでぐるりと頭までエネルギーが通りました。エネルギーが通る時、特に胸のあたりで骨をボキボキ鳴らすのと同じような感覚で何かがちょっと動いたような感じがしました。物理的には動いていない筈ですけどね。これが小周天なのか大周天なのかよくわかりませんが、小周天っていうともっとちょろっとしたエネルギーのような気もしますし、かといって大周天は定義が色々でイマイチ判断がつきにくいですが、大周天ぽい感じだった、とでもしておきます。
かなり以前は瞑想をする際に、例えば眉間であるとかお腹であるとか胸などに集中をした場合、心の動きを押さえつける役割としての集中でした。
最近の、特にテクチュっぽい境地になってからの集中は、意識は集中するのですが、それよりも「集める」という方が正しいものになってきています。
ただ、特別に「集めよう」と意識しているわけではありません。
意識を、例えば眉間に集中して・・・ と言いますか、単に意識を眉間に「置く」というくらいの感覚ですが、そのように意識を眉間に置いた場合、瞑想を始めるとすぐに周囲のオーラが規則性を持って安定し始めます。・・・そんな気がしてきます。
そうして30分とかもう少しか瞑想を続けていますと、意識はそのままなのですが、急激にオーラが眉間のあたりに凝縮されてくるのを感じます。特別にそのように動くように意識したわけでもありませんが、意識を眉間に置いておく状態、いわゆる集中という状態を続けますと、そのように、意識というかオーラのようなものが眉間および体の内側に沿った形で、特に眉間や胸のあたりに凝縮されることがわかるのです。分かる、と言っても良いですし、感じる、と表現しても同じことです。感じて、分かるのです。
例えるならば、流しやプールに入った水と排水溝があった時、排水溝から少しだけ水を下に流すと、排水溝のあるところを中心にして水が渦巻きのように回転し始めます。遠くに葉っぱを浮かべてもゆっくりゆっくりとしか動きません。葉っぱが排水溝に近づくと急に動きが早くなって排水溝に勢いよく流れ込んでいきます。それと同じで、瞑想を初めて30分くらいはゆっくりとしか動かないのですが、最後は急激に凝縮するのです。
そのようにして最近は瞑想を続けていたわけですが、その凝縮した感覚で瞑想を続けていますと、やがて、そのエネルギーが飽和して近くに流れ始めました。
最初は、眉間から下方向に流れて喉に入り、胸の前を通ってお腹のあたりまで届きました。そして、ムーラダーラのある会陰のあたりも脈打って反応してエネルギーが通じているのを感じたのです。
かなり以前にクンダリーニのエネルギーが解放されてマニプラやアナハタのエネルギーがそれぞれ優勢になった段階においては、特別に前とか後ろとかそのようなことを意識はしておりませんでした。その際は、体の内部がエネルギーに満ちた感じをしており、今もそれは変わらないのですが、今回は、その体の内部に満ちたエネルギーとは独立して体の前面にエネルギーのルートが通ったような気が致します。
まず最初にそうして眉間のアジナから喉のヴィシュッダ、そして胸のアナハタの前面、そしてマニプラ。マニプラは前面と言うより内部な感じでした。そして会陰のムーラダーラもいつも通りの内部な感じでした。
ですから、今回新たにエネルギーが通ったルートは眉間のアジナからマニプラまでの前面ルートだったと解釈して良いと思います。アジナからアナハタまでは前面、アナハタからマニプラにかけては上半分が前面で下半分が斜めに横切って内部のマニプラに接続されているような感じでした。
そして、それだけでなく、アジナから後頭部にかけて真っ直ぐ伸びるルートおよび後頭部から頭頂に向かってのルートも更に活性化してきたように思います。少し前に頭の頭頂が割れたような感じになったところからエネルギーの交換がされているような感じです。頭頂だからといってそれがサハスララとは限りませんが、まあ、頭頂の感覚があります。
これで、基本的な部分に関しては頭頂から前面を通って下半身までルートが通ったように思います。
今は体の中はポカポカしていますし、今回のことで前面にもエネルギーが通り始めましたが、背後に関してはそれほど明確なエネルギー・ルートがありません。背後についてはまだまだ様子見と言ったところです。
それでも、とりあえず小周天あるいは大周天っぽい真似事でぐるりとエネルギーを回転させてみましたらそれなりに通りました。眉間から体の前面を通って下半身にたどり着いた後、背後というよりは体の中の背骨のあたり半径10cm前後の大きさでぐるりと頭までエネルギーが通りました。エネルギーが通る時、特に胸のあたりで骨をボキボキ鳴らすのと同じような感覚で何かがちょっと動いたような感じがしました。物理的には動いていない筈ですけどね。これが小周天なのか大周天なのかよくわかりませんが、小周天っていうともっとちょろっとしたエネルギーのような気もしますし、かといって大周天は定義が色々でイマイチ判断がつきにくいですが、大周天ぽい感じだった、とでもしておきます。
集中するという意味合いにおいて1つの流派を続けた方が良い
精神修行においては1つの流派を続けた方が良いとはよく言われていることです。それは宗教的な意味合いで独善的であっては良くないですが、それでも、1つの流派を続けることのメリットはあると思います。
精神修行ではある種の「型」と言うものがあって、マントラや座り方や体操の仕方および儀式のやり方まで様々なものがあります。
そのような儀式はある種の法則性で成り立ってはおりますが、主に文化的背景が強いためにもともと精神性が高くして生まれた人であってもそのような作法はそれぞれの生で学び直す必要があります。
キリスト教にはそのやり方があり、ヨーガにもそのやり方があり、修験道や仏教にもそれぞれのやり方があります。
ですから、昨今の宗教はどれをやっても最終的な解脱に基本的には辿り着くはずなのですが、色々やっていると型を学ぶところで労力を使いすぎてしまい、ゴールには行き着くのが難しくなるのだと思います。
宗教や流派の問題点として自身の派閥に絶対的な信頼を置いてしまうが故に独善的になったり自身の流派が最高だと考えてしまうような弊害もありますが、それでも、自分の流派に集中することは良いことだと思います。
基本はどれをやっても良いのですが、本来の修行ができるためにはある程度の慣れと修練が必要というわけです。その準備段階に意外に時間がかかるためにあれこれやらずに1つだけに絞った方が本来の修行が効率よくできると思うのです。
まあ、実際には流派によっては辿り着いている境地が違いますから本当に上を求めるのならば選ぶ必要があるのかもしれませんが、そこまで辿り着く人はそれほどいませんし、近所でやりやすいところを選ぶので十分だと思います。近所で師匠が見つけられるのならばそれが一番です。あまり最高の師匠とか求める必要はなくて、型を教えてくれて基本を教えてくれる師匠がいれば大抵の場合は十分のように思います。
このあたりは、人間の師匠に関していえばなかなか見つけるのが難しいですが、霊界の師匠は割と大勢いるように思いますので、導きがあればそのような指導霊をつけるのが一番のようにも思います。霊界の指導霊くらいになりますと流派なんてそれほど関係ないみたいですので、流派が違っていても色々と教えてくれます。
何せ、人間の指導者とは比べ物にならないくらい通し目が効きますし、物事の道理や今必要な事柄など明確に教えてくれるので、まあ、そういうこともあって、私なんかが思うには、近所で通いやすくさえあれば流派はどこでもいいのかな、とは思うわけですけれどもあまり色々探すよりは1つを集中した方がいいかな、と思ったりもするわけです。
精神修行ではある種の「型」と言うものがあって、マントラや座り方や体操の仕方および儀式のやり方まで様々なものがあります。
そのような儀式はある種の法則性で成り立ってはおりますが、主に文化的背景が強いためにもともと精神性が高くして生まれた人であってもそのような作法はそれぞれの生で学び直す必要があります。
キリスト教にはそのやり方があり、ヨーガにもそのやり方があり、修験道や仏教にもそれぞれのやり方があります。
ですから、昨今の宗教はどれをやっても最終的な解脱に基本的には辿り着くはずなのですが、色々やっていると型を学ぶところで労力を使いすぎてしまい、ゴールには行き着くのが難しくなるのだと思います。
宗教や流派の問題点として自身の派閥に絶対的な信頼を置いてしまうが故に独善的になったり自身の流派が最高だと考えてしまうような弊害もありますが、それでも、自分の流派に集中することは良いことだと思います。
基本はどれをやっても良いのですが、本来の修行ができるためにはある程度の慣れと修練が必要というわけです。その準備段階に意外に時間がかかるためにあれこれやらずに1つだけに絞った方が本来の修行が効率よくできると思うのです。
まあ、実際には流派によっては辿り着いている境地が違いますから本当に上を求めるのならば選ぶ必要があるのかもしれませんが、そこまで辿り着く人はそれほどいませんし、近所でやりやすいところを選ぶので十分だと思います。近所で師匠が見つけられるのならばそれが一番です。あまり最高の師匠とか求める必要はなくて、型を教えてくれて基本を教えてくれる師匠がいれば大抵の場合は十分のように思います。
このあたりは、人間の師匠に関していえばなかなか見つけるのが難しいですが、霊界の師匠は割と大勢いるように思いますので、導きがあればそのような指導霊をつけるのが一番のようにも思います。霊界の指導霊くらいになりますと流派なんてそれほど関係ないみたいですので、流派が違っていても色々と教えてくれます。
何せ、人間の指導者とは比べ物にならないくらい通し目が効きますし、物事の道理や今必要な事柄など明確に教えてくれるので、まあ、そういうこともあって、私なんかが思うには、近所で通いやすくさえあれば流派はどこでもいいのかな、とは思うわけですけれどもあまり色々探すよりは1つを集中した方がいいかな、と思ったりもするわけです。
サハスララの早すぎる開きはオーラを流出させる
最近の意識の集中を解いても発散しない意識として表現できるような意識の集中・凝縮の状態、および、いわゆるルドラ・グランティの解放に伴う現象について、瞑想中に私の内なるガイド(内なるグル)から解説がありました。
それによりますと、今回の場合は上記のように意識が凝縮された状態でサハスララへのルートが開いたから良いが、ゾクチェンで言うところのテクチュの境地を前提として発散しない意識を到達していなければサハスララからオーラが抜けやすいので危険、とのことでした。
クンダリーニ解放時にサハスララまでエネルギーが到達してサハスララが開いてしまう方がいらっしゃいますが、その場合、往々にしてテクチュの境地には達していないため、危険な状態になり得る、とのことでした。
テクチュの境地に達していない、シネーの境地までの集中では日々の日常生活においてあまりにも集中が途切れてしまい、サハスララが開いている場合はサハスララからあまりにもオーラが漏れてしまう可能性があるとのことでした。
サハスララが開いた場合は、まだテクチュの境地に達していない場合は速やかに達するか、あるいはグルがいるならばグルの元で監視下に置かれるべきとのことです。
サハスララが開いていなくてクンダリーニだけが開いた場合はそれはそれで厄介で、エネルギーが抜けないので体の中に溜まってしまって湯気が出るようなぼうっとした状態、いわゆるクンダリーニ症候群になる可能性もありますが、その危険性よりも早期にサハスララが開いてしまった方の危険の方が大きいようです。
私の場合、いつしかにも言及しましたが、完全にクンダリーニを解放せずに一部を解放させると言う手法を取って、そのおかげでサハスララは閉じたままで今まで来たために割と安全だったようです。閉じていても危険なことがあるのですが、私の場合は今まで閉じていた方が安全だったと言う判断があったようです。
どちらにせよグルの監視がある方が安全なのですが、ここで言う前提として、そこまで見ることができて対処ができるグルが必要ですので、グルがいたとしても何もわからない、何も対処できないようなグルでしたらあまり関係ありません。
実際のところ、そこまでできるグルはそうそういませんし、一般的には、問題が生じた場合はサハスララを閉じてあげるくらいしか対処方法はないような気が致します。できるならば、のお話ですが。ですので、サハスララを開けるなんて他人にはお勧めしません。
この種の行法は危険で、人間にせよ内なるグルにせよ、何某かのグルがいないと大変だなと今回思いました。
それによりますと、今回の場合は上記のように意識が凝縮された状態でサハスララへのルートが開いたから良いが、ゾクチェンで言うところのテクチュの境地を前提として発散しない意識を到達していなければサハスララからオーラが抜けやすいので危険、とのことでした。
クンダリーニ解放時にサハスララまでエネルギーが到達してサハスララが開いてしまう方がいらっしゃいますが、その場合、往々にしてテクチュの境地には達していないため、危険な状態になり得る、とのことでした。
テクチュの境地に達していない、シネーの境地までの集中では日々の日常生活においてあまりにも集中が途切れてしまい、サハスララが開いている場合はサハスララからあまりにもオーラが漏れてしまう可能性があるとのことでした。
サハスララが開いた場合は、まだテクチュの境地に達していない場合は速やかに達するか、あるいはグルがいるならばグルの元で監視下に置かれるべきとのことです。
サハスララが開いていなくてクンダリーニだけが開いた場合はそれはそれで厄介で、エネルギーが抜けないので体の中に溜まってしまって湯気が出るようなぼうっとした状態、いわゆるクンダリーニ症候群になる可能性もありますが、その危険性よりも早期にサハスララが開いてしまった方の危険の方が大きいようです。
私の場合、いつしかにも言及しましたが、完全にクンダリーニを解放せずに一部を解放させると言う手法を取って、そのおかげでサハスララは閉じたままで今まで来たために割と安全だったようです。閉じていても危険なことがあるのですが、私の場合は今まで閉じていた方が安全だったと言う判断があったようです。
どちらにせよグルの監視がある方が安全なのですが、ここで言う前提として、そこまで見ることができて対処ができるグルが必要ですので、グルがいたとしても何もわからない、何も対処できないようなグルでしたらあまり関係ありません。
実際のところ、そこまでできるグルはそうそういませんし、一般的には、問題が生じた場合はサハスララを閉じてあげるくらいしか対処方法はないような気が致します。できるならば、のお話ですが。ですので、サハスララを開けるなんて他人にはお勧めしません。
この種の行法は危険で、人間にせよ内なるグルにせよ、何某かのグルがいないと大変だなと今回思いました。
全集中の呼吸はクンダリーニとテクチュのサマーディ・ヴィパッサナー状態
漫画「鬼滅の刃(きめつのやいば)」で「全集中の呼吸」と言うのが出てきますが、本編で詳しい解説はないものの、私個人の勝手な解釈と言うか想像ですとこれはクンダリーニとサマーディの融合状態ですね。
ちなみに、私は武術とかやりません。勝手な想像です。よもやま話です。たまにはこう言う話もいいかなと。
まず、呼吸と言っていますけどこれはヨーガとかでも良く呼吸が言われていて、ヨーガスートラやハタヨガプラピディカでも「呼吸」が大事と言われていますけど、この「呼吸」は翻訳の妙で、実際はプラーナと言う微細なエネルギーの制御になります。呼吸で空気を取り入れると言う面もありますが、プラーナを取り入れて力にするのです。
であれば、全身呼吸とか言っているのは、プラーナを全身に巡らせることになります。いわゆる気やオーラのことです。
気脈とか経絡とか言われているエネルギーのルートを、ヨーガではナディと呼んでいます。その主要なものが背骨沿いにあるスシュムナとその左右にあるイダとピンガラですが、漫画ではここまでは説明していませんでしたね。
まずクンダリーニがそのスシュムナを通るのが第一歩で、その後、体全身に気脈と言うかエネルギーを通します。そうしてエネルギーの通り道であるナディが全身で活性化します。
そうして活性化すると、まず最初は集中状態に達します。この順番は集中が先だったり活性化が先だったりしますが、ともかく活性化と集中が実現します。この集中状態はチベットのゾクチェンで言うところのシネーの境地と言われているもので、いわゆる普通の集中状態を意味します。この状態ではまだ全身に意識が通っていません。
その後、ゾクチェンで言うところのテクチュの境地に達すれば全身に意識が通った状態になり、漫画で言われているいわゆる「全集中の呼吸」といわれている状態に到達します。
剣で集中して刃を振るうのがゾクチェンのシネーの境地。
体全体に意識が通って全集中の呼吸をするのがゾクチェンのテクチュの境地で、これはサマーディとかヴィパッサナー状態と言い換えても良いです。
全集中常中とか言われているのはテクチュの境地が高まって日常的にサマーディ(ヴィパッサナー)を保てるようになった状態を意味します。最初は意識しないと全集中の呼吸が保てませんが、そのうち普通になるわけです。ですから、漫画の中では実際に息の呼吸で全集中の呼吸を24時間するような描画をしていますが、実際にはこれは呼吸というよりもエネルギー的なものですから、全身にエネルギーが満ちてサマーディ(ヴィパッサナー)状態が常時保てるようになったらそれでいいわけです。訓練の仕方も、ああいうスパルタもあるのかもしれませんけど、それよりも瞑想した方が手っ取り早いような気も致します。
そうして、物語の中で「日の呼吸(ヒノカミ神楽、始まりの呼吸)」とか言われているのはゾクチェンの次の境地であるトゥガルの境地であり、いわゆる悟りに近い状態になります。
まあ、漫画ですので完全に一致しているわけではなくて、本当にその境地に達していたら主人公の表情も本来は違う筈なんですけど、そこは漫画ですし面白くドラマティックに描かないと人気が出ないでしょうからそこまでは突っ込みませんけど、それでも、この漫画はこのあたりを勉強したかもしれない人が書いているのではないかと思わされますので興味深いです。
この辺りを踏まえますと、漫画の中の鬼殺隊のメンバーのほとんどがクンダリーニ覚醒者で構成されていることになります。更には、「柱」と言われている主要メンバーはゾクチェンのテクチュの境地以上を極めていることになります。
主人公である竈門炭治郎(かまどたんじろう)が悟りの境地に近いトゥガルの境地を達成して「日の呼吸」を使い、これからきっと鬼の親分を退治することになるのかなと思います。ここはまだ物語は進行中ですので想像ですけど、そうであれば全体として辻褄が合います。
漫画に色々と求めすぎてもなんですが、時代的に、人の心の中に入り込んでいる鬼をどのように人一人が退治してゆくかと言うテーマに沿って解釈すると、この時代にこの漫画が人気が出ているのも興味深いものがあります。
まあ、漫画のよもやま話なので厳密性を求められてしまうと困りますが、なんとなく気になったところをつらつらと書いてみました。
ちなみに、私は武術とかやりません。勝手な想像です。よもやま話です。たまにはこう言う話もいいかなと。
まず、呼吸と言っていますけどこれはヨーガとかでも良く呼吸が言われていて、ヨーガスートラやハタヨガプラピディカでも「呼吸」が大事と言われていますけど、この「呼吸」は翻訳の妙で、実際はプラーナと言う微細なエネルギーの制御になります。呼吸で空気を取り入れると言う面もありますが、プラーナを取り入れて力にするのです。
であれば、全身呼吸とか言っているのは、プラーナを全身に巡らせることになります。いわゆる気やオーラのことです。
気脈とか経絡とか言われているエネルギーのルートを、ヨーガではナディと呼んでいます。その主要なものが背骨沿いにあるスシュムナとその左右にあるイダとピンガラですが、漫画ではここまでは説明していませんでしたね。
まずクンダリーニがそのスシュムナを通るのが第一歩で、その後、体全身に気脈と言うかエネルギーを通します。そうしてエネルギーの通り道であるナディが全身で活性化します。
そうして活性化すると、まず最初は集中状態に達します。この順番は集中が先だったり活性化が先だったりしますが、ともかく活性化と集中が実現します。この集中状態はチベットのゾクチェンで言うところのシネーの境地と言われているもので、いわゆる普通の集中状態を意味します。この状態ではまだ全身に意識が通っていません。
その後、ゾクチェンで言うところのテクチュの境地に達すれば全身に意識が通った状態になり、漫画で言われているいわゆる「全集中の呼吸」といわれている状態に到達します。
剣で集中して刃を振るうのがゾクチェンのシネーの境地。
体全体に意識が通って全集中の呼吸をするのがゾクチェンのテクチュの境地で、これはサマーディとかヴィパッサナー状態と言い換えても良いです。
全集中常中とか言われているのはテクチュの境地が高まって日常的にサマーディ(ヴィパッサナー)を保てるようになった状態を意味します。最初は意識しないと全集中の呼吸が保てませんが、そのうち普通になるわけです。ですから、漫画の中では実際に息の呼吸で全集中の呼吸を24時間するような描画をしていますが、実際にはこれは呼吸というよりもエネルギー的なものですから、全身にエネルギーが満ちてサマーディ(ヴィパッサナー)状態が常時保てるようになったらそれでいいわけです。訓練の仕方も、ああいうスパルタもあるのかもしれませんけど、それよりも瞑想した方が手っ取り早いような気も致します。
そうして、物語の中で「日の呼吸(ヒノカミ神楽、始まりの呼吸)」とか言われているのはゾクチェンの次の境地であるトゥガルの境地であり、いわゆる悟りに近い状態になります。
まあ、漫画ですので完全に一致しているわけではなくて、本当にその境地に達していたら主人公の表情も本来は違う筈なんですけど、そこは漫画ですし面白くドラマティックに描かないと人気が出ないでしょうからそこまでは突っ込みませんけど、それでも、この漫画はこのあたりを勉強したかもしれない人が書いているのではないかと思わされますので興味深いです。
この辺りを踏まえますと、漫画の中の鬼殺隊のメンバーのほとんどがクンダリーニ覚醒者で構成されていることになります。更には、「柱」と言われている主要メンバーはゾクチェンのテクチュの境地以上を極めていることになります。
主人公である竈門炭治郎(かまどたんじろう)が悟りの境地に近いトゥガルの境地を達成して「日の呼吸」を使い、これからきっと鬼の親分を退治することになるのかなと思います。ここはまだ物語は進行中ですので想像ですけど、そうであれば全体として辻褄が合います。
漫画に色々と求めすぎてもなんですが、時代的に、人の心の中に入り込んでいる鬼をどのように人一人が退治してゆくかと言うテーマに沿って解釈すると、この時代にこの漫画が人気が出ているのも興味深いものがあります。
まあ、漫画のよもやま話なので厳密性を求められてしまうと困りますが、なんとなく気になったところをつらつらと書いてみました。
インドのとあるグルの物語
私のグループソウル(類魂)の中にかつてインドでヨーガのグルをしていた魂がいます。私の一部でもあるので私の過去生と言えなくもないですが今の私が受け継いでいるのはせいぜい5%から多くて10%くらいかなという気も致します。
その人生の前はヨーロッパの方でいわゆる魔女をしており、当時のヨーロッパでは魔女狩りなどにもあったりして苦労した魂もあったのですが、分岐としては、魔女狩りに合う前に分霊になって分かれて行った方の魂がインドでグルをしたようです。その後、一部の分霊はヨーロッパで魔女狩りにあったりナチスに囚われて透視させられたりもしておりましたが、グルをしていた方の魂は割と平穏に暮らしたようです。
それまではヨーガのグルなどをしたことはなく、初めての人生でしたがモチベーションとしては2つあったと思います。1つは、より上位のハイヤーセルフから人類の成長のためにグルをしなさいという掲示がまずあって、それを魂が受けて、たまにはヨーガのグルも面白そうだ、という顕在意識で判断してグルをする転生を選んだようです。このように、上位からの指示がインスピレーションとしてあって、それを元に顕在意識で判断するというのは生きている人間においてもありますが、魂においてもそれは同様のようです。
そうしてヨーガのグルをすることにしたのですが、それまではヨーガのグルをしておりませんでしたので、基本はヨーロッパの方で生活していた魔女の考え方が基本にありました。よって、ヨーガのグルとは言っても伝統的なハタヨガのように体術・ポーズ(アサナ)は重視せず、瞑想とチャンティングの詠唱で浄化することを基本にしていたようです。
場所はインドの中北部、バナラシからそれほど遠くはなかったような気もしますし、ビハール州だった可能性もありますけど転生する場所を探すときに空中から見た鳥瞰図ですと、おそらくはバナラシから南西方向に数百キロ、ナーグプルまでは行かない範囲のどこかだったような気も致します。
既にグルがいるところは伝統的なハタヨガを重視している傾向がありますので避け、既に廃れている寺院がある町を選びました。その寺院を拠点にしようとしたのです。あらかじめタイムラインを先まで確認してその寺院を自分の寿命が尽きるまで使えることを確認し、近くのそこそこ裕福な家庭を選んで転生しました。
最初からそのような目的がありましたので、子供の頃からその寺院には足しげく通い、掃除をしたり瞑想したりして自分が管理している場所であるという印象を周囲の人にアピールしました。もちろん誰のものでもなくて廃墟の寺院ですけど、段々と、そのような共通認識が出来上がっていったのです。
そうして成人になる日に、家長に対して「出家をしたいのです」と伝え、家長もおそらくそうだろうとは思っていたのでしょう。ちょっと答えに詰まりましたが、すぐに「わかった。良いよ」と答えてくれて、出家しました。
いきなり寺院のグルになることは流れとして適切ではなかったため、近くのアシュラムに修行に行くことにしました。たしか、著名なヨーギの元で2年修行し、その後、また違う著名なヨーギの元で3年前後修行し、スワミとしての伝授を受けてからもといた町に帰ってきたように思います。
もっと長く修行しても良かったのですが、あまり長く留守にするともともと目をつけていた寺院を取られてしまいかねないのと、元々、人類の成長のために多くの弟子を育てることが目的でありましたので、ある程度の区切りをつけてから生まれ育った町に帰ってきました。
実のところ、生まれた時からリモートビューイング(千里眼)や未来予見の能力は持っておりましたが、特にそれを他人に言うことはなく、修行して身に付けた、ということに致しました。だって、その方がそれっぽいでしょう? (笑)それに、弟子たちにとってみても、修行すればそのような能力が身につくのだという多少なりのもちーベーションにもなることでしょう。能力が生まれつきだとか言ってしまったら、そりゃあもう、救いがありません(苦笑)
実際のところ、弟子たちの中で千里眼や未来予知の能力まで完全に身に付けた人は私が生きている間はいませんでしたけど、それでも、クンダリーニの覚醒をしてマニプラやアナハタ優勢、そして一部はアジナも活性化して直感がかなり鋭くなる、という弟子も現れました。ですので、グルとしての人生はそこそこ成果が出たのかな、と思っております。その魂が思っています、ということです。
時には弟子たちが来ることを予見して、姿を見るなりその出身地を言い当てたりしました。そのくらいは簡単です。大体は的中します。90%~95%くらいは当たったと思います。
例えば弟子がアナハタ覚醒する時には予感があって、他の弟子に少し豪華な食事をあらかじめ用意させたりしました。あと数日中にお祝いがあるので用意しておくように言って、食材を少し多めに買わせておいたりするのです。
今までやんちゃで、ちょっと浮ついていたような弟子であってもアナハタ覚醒するとかなり落ち着きが出て、大人の貫禄、聖者の貫禄がそれなりに出てくるものです。マニプラですとまだ元気になったくらいで落ち着きは今一歩ですが、アナハタくらいが聖者と凡人との境目になっているように思います。
日々行っていたことは、ハタヨガの体操も基礎として行ってはいたものの、上に記しましたように重視していたのは瞑想とチャンティングです。
瞑想は、最初は私が前に座って静かに座る瞑想をします。少し様子を見ながら、弟子が落ち着いていないようであれば名前を言って近くに座らせ、例えば指を顔の前に出して指を見るように言い、それを見て集中して心を落ち着かせるように言ったりしました。見るだけでは不十分な場合は口に出してマントラを唱えたりもしました。そうして、弟子の心が落ち着いたら静かに席に戻って瞑想を続けるように言うのです。
そうして、どのくらいの時間でしょう・・・。おそらくは1時間かそのくらいだったかと思いますが、当時はきちんとした時計がありませんでしたので時間は大体だったように思います。頃合いになると瞑想を解き、チャンティングを行います。いわゆるバジャンとか言われている詠唱をみんなで行います。
私は、はっきり言って、歌はそれほど上手くはなかったように思います。
そのうち、弟子の中で歌が上手い人がいて、度々、歌ってもらっていたように思います。その弟子は褒められて照れていましたが。その弟子はちょっと褒めすぎてちょっと有頂天になったりもしましたが、それでも、アナハタが覚醒したらかなり落ち着きが出て聖者っぽくなりました。途中の態度がどうであれ、アナハタさえ覚醒してしまえばかなりの弱点は克服されるのかなあ... という気も致します。どこか子供っぽかったその弟子も、アナハタ覚醒後は意識がガラリと変わって落ち着いた表情になっておりました。
そんな中、どこにも不肖の弟子というのはいるもので・・・・。瞑想していてもどこか苦しそうな表情をずっと浮かべ続け、近くに呼んで集中の手伝いをしてあげてもなかなか成長しない弟子がいました。やはりセンスの違いがあるのだなぁ... と思って見守っていたのですが、そんな不肖の弟子であっても、その弟子の場合は、どこか人懐っこくて可愛げがあるのです。いやはや、グルであっても愛着はあるようです(苦笑)
不肖の弟子ではあってもことあるごとに頼ってくるので可愛い弟子だったように思います。他の人からも親しまれていました。ですが、瞑想のセンスはいまいちでした(苦笑)
まあ、そんな不肖の弟子であっても10年以上続けていれば少しずつ成長するもので、他の人よりは成長が遅くとも、着実に進歩が見られたように思います。ですから、不肖の弟子であっても諦める必要はないと思います。
私は未来が見通せましたので、この弟子は死ぬまでに大体このくらいの境地まで達することができるな・・・ というのが見て取れました。
弟子の中にはかなりの境地に達してグルとして免許皆伝になり生まれ故郷に帰って行く者もいましたが、その不肖の弟子はそこまでの境地に達することができないのがわかってしまったが故に、ちょっと甘くして早めの免許皆伝を与えたこともありました。このことは以前、別件で少し書きました。
流石に千里眼はどの弟子も無理でしたが、ゾクチェンで言うところのシネーの境地に相当する瞑想状態にようやく達したのがその不肖の弟子で、他の弟子はその上のテクチュの境地、いわゆるサマーディやヴィパッサナーに達しておりましたのでレベルはかなり違うのですが、シネーの境地に相当する集中状態ができればとりあえず一般的なグルとしてはやっていけるように思いました。
まあ、そのグルが今世でもどうやらヨーガのグルをしており、いわゆるスワミになっていることに以前気がついたのですが、相変わらず、あの人懐っこさというか仕草の可愛さはおそらく昔のままだったように思います。向こうはこちらのことに気がついていないようでしたけど、まあ、こんなこと言ってもしょうがないので言っていません。向こうが気がついたら話すかもしれませんが、話したところでどうしようもないので話す必要もないのです。
どうも、見るからにその当時に到達した意識より上にはまだ行けていないようでした。ですがまあ、基本はできているので良いかな、と。
弟子はもっとたくさんいてそれぞれなのですが、中には、能力をもらったらすぐに故郷に帰るつもりで来たが自分が修行しないといけない上に時間がかかることを知って不愉快になり、数ヶ月もしないうちに出て行くような弟子もいました。まあ、そういう人はどこにでもいますので帰ってもらうしかありません。
その寺院では日々、町の人々の相談を受け付けていました。今もよくある人生相談で、就職や結婚や引越しや、様々な相談事にのっていたのです。未来予知して千里眼でしたので大体のことは的中して正確に伝えることができましたが、それでも、たまには間違うこともあったようで、その原因はわからないことがほとんどでした。上に書きましたように大体90%~95%は的中ですけど、時々、間違えます。
間違えるというよりは、おそらく、時間差の間に誰かの意思が入ってタイムラインをねじ曲げられてしまったのだ、という理解をしております。こればっかりは仕方がありません。人々がタイムライン上で大人しくしてくれる場合が多いとはいえ、常にそうとは限りませんし。
特に現代ですとタイムラインをねじ曲げられることが増えているように思いますので、昔より当たらなくなったような気が致します。
そうして相談に乗って、お布施をもらって資金にしておりました。お布施は金額が自由でしたが弟子たちと共に生活するには不自由なかったように思います。
時々、遠くから著名な方も見えられて、なかなか楽しいグル生活だったように思います。
・・・まあ、証拠とかはないので、とりあえず、夢のお話と思っておいて頂ければと思います。
その人生の前はヨーロッパの方でいわゆる魔女をしており、当時のヨーロッパでは魔女狩りなどにもあったりして苦労した魂もあったのですが、分岐としては、魔女狩りに合う前に分霊になって分かれて行った方の魂がインドでグルをしたようです。その後、一部の分霊はヨーロッパで魔女狩りにあったりナチスに囚われて透視させられたりもしておりましたが、グルをしていた方の魂は割と平穏に暮らしたようです。
それまではヨーガのグルなどをしたことはなく、初めての人生でしたがモチベーションとしては2つあったと思います。1つは、より上位のハイヤーセルフから人類の成長のためにグルをしなさいという掲示がまずあって、それを魂が受けて、たまにはヨーガのグルも面白そうだ、という顕在意識で判断してグルをする転生を選んだようです。このように、上位からの指示がインスピレーションとしてあって、それを元に顕在意識で判断するというのは生きている人間においてもありますが、魂においてもそれは同様のようです。
そうしてヨーガのグルをすることにしたのですが、それまではヨーガのグルをしておりませんでしたので、基本はヨーロッパの方で生活していた魔女の考え方が基本にありました。よって、ヨーガのグルとは言っても伝統的なハタヨガのように体術・ポーズ(アサナ)は重視せず、瞑想とチャンティングの詠唱で浄化することを基本にしていたようです。
場所はインドの中北部、バナラシからそれほど遠くはなかったような気もしますし、ビハール州だった可能性もありますけど転生する場所を探すときに空中から見た鳥瞰図ですと、おそらくはバナラシから南西方向に数百キロ、ナーグプルまでは行かない範囲のどこかだったような気も致します。
既にグルがいるところは伝統的なハタヨガを重視している傾向がありますので避け、既に廃れている寺院がある町を選びました。その寺院を拠点にしようとしたのです。あらかじめタイムラインを先まで確認してその寺院を自分の寿命が尽きるまで使えることを確認し、近くのそこそこ裕福な家庭を選んで転生しました。
最初からそのような目的がありましたので、子供の頃からその寺院には足しげく通い、掃除をしたり瞑想したりして自分が管理している場所であるという印象を周囲の人にアピールしました。もちろん誰のものでもなくて廃墟の寺院ですけど、段々と、そのような共通認識が出来上がっていったのです。
そうして成人になる日に、家長に対して「出家をしたいのです」と伝え、家長もおそらくそうだろうとは思っていたのでしょう。ちょっと答えに詰まりましたが、すぐに「わかった。良いよ」と答えてくれて、出家しました。
いきなり寺院のグルになることは流れとして適切ではなかったため、近くのアシュラムに修行に行くことにしました。たしか、著名なヨーギの元で2年修行し、その後、また違う著名なヨーギの元で3年前後修行し、スワミとしての伝授を受けてからもといた町に帰ってきたように思います。
もっと長く修行しても良かったのですが、あまり長く留守にするともともと目をつけていた寺院を取られてしまいかねないのと、元々、人類の成長のために多くの弟子を育てることが目的でありましたので、ある程度の区切りをつけてから生まれ育った町に帰ってきました。
実のところ、生まれた時からリモートビューイング(千里眼)や未来予見の能力は持っておりましたが、特にそれを他人に言うことはなく、修行して身に付けた、ということに致しました。だって、その方がそれっぽいでしょう? (笑)それに、弟子たちにとってみても、修行すればそのような能力が身につくのだという多少なりのもちーベーションにもなることでしょう。能力が生まれつきだとか言ってしまったら、そりゃあもう、救いがありません(苦笑)
実際のところ、弟子たちの中で千里眼や未来予知の能力まで完全に身に付けた人は私が生きている間はいませんでしたけど、それでも、クンダリーニの覚醒をしてマニプラやアナハタ優勢、そして一部はアジナも活性化して直感がかなり鋭くなる、という弟子も現れました。ですので、グルとしての人生はそこそこ成果が出たのかな、と思っております。その魂が思っています、ということです。
時には弟子たちが来ることを予見して、姿を見るなりその出身地を言い当てたりしました。そのくらいは簡単です。大体は的中します。90%~95%くらいは当たったと思います。
例えば弟子がアナハタ覚醒する時には予感があって、他の弟子に少し豪華な食事をあらかじめ用意させたりしました。あと数日中にお祝いがあるので用意しておくように言って、食材を少し多めに買わせておいたりするのです。
今までやんちゃで、ちょっと浮ついていたような弟子であってもアナハタ覚醒するとかなり落ち着きが出て、大人の貫禄、聖者の貫禄がそれなりに出てくるものです。マニプラですとまだ元気になったくらいで落ち着きは今一歩ですが、アナハタくらいが聖者と凡人との境目になっているように思います。
日々行っていたことは、ハタヨガの体操も基礎として行ってはいたものの、上に記しましたように重視していたのは瞑想とチャンティングです。
瞑想は、最初は私が前に座って静かに座る瞑想をします。少し様子を見ながら、弟子が落ち着いていないようであれば名前を言って近くに座らせ、例えば指を顔の前に出して指を見るように言い、それを見て集中して心を落ち着かせるように言ったりしました。見るだけでは不十分な場合は口に出してマントラを唱えたりもしました。そうして、弟子の心が落ち着いたら静かに席に戻って瞑想を続けるように言うのです。
そうして、どのくらいの時間でしょう・・・。おそらくは1時間かそのくらいだったかと思いますが、当時はきちんとした時計がありませんでしたので時間は大体だったように思います。頃合いになると瞑想を解き、チャンティングを行います。いわゆるバジャンとか言われている詠唱をみんなで行います。
私は、はっきり言って、歌はそれほど上手くはなかったように思います。
そのうち、弟子の中で歌が上手い人がいて、度々、歌ってもらっていたように思います。その弟子は褒められて照れていましたが。その弟子はちょっと褒めすぎてちょっと有頂天になったりもしましたが、それでも、アナハタが覚醒したらかなり落ち着きが出て聖者っぽくなりました。途中の態度がどうであれ、アナハタさえ覚醒してしまえばかなりの弱点は克服されるのかなあ... という気も致します。どこか子供っぽかったその弟子も、アナハタ覚醒後は意識がガラリと変わって落ち着いた表情になっておりました。
そんな中、どこにも不肖の弟子というのはいるもので・・・・。瞑想していてもどこか苦しそうな表情をずっと浮かべ続け、近くに呼んで集中の手伝いをしてあげてもなかなか成長しない弟子がいました。やはりセンスの違いがあるのだなぁ... と思って見守っていたのですが、そんな不肖の弟子であっても、その弟子の場合は、どこか人懐っこくて可愛げがあるのです。いやはや、グルであっても愛着はあるようです(苦笑)
不肖の弟子ではあってもことあるごとに頼ってくるので可愛い弟子だったように思います。他の人からも親しまれていました。ですが、瞑想のセンスはいまいちでした(苦笑)
まあ、そんな不肖の弟子であっても10年以上続けていれば少しずつ成長するもので、他の人よりは成長が遅くとも、着実に進歩が見られたように思います。ですから、不肖の弟子であっても諦める必要はないと思います。
私は未来が見通せましたので、この弟子は死ぬまでに大体このくらいの境地まで達することができるな・・・ というのが見て取れました。
弟子の中にはかなりの境地に達してグルとして免許皆伝になり生まれ故郷に帰って行く者もいましたが、その不肖の弟子はそこまでの境地に達することができないのがわかってしまったが故に、ちょっと甘くして早めの免許皆伝を与えたこともありました。このことは以前、別件で少し書きました。
流石に千里眼はどの弟子も無理でしたが、ゾクチェンで言うところのシネーの境地に相当する瞑想状態にようやく達したのがその不肖の弟子で、他の弟子はその上のテクチュの境地、いわゆるサマーディやヴィパッサナーに達しておりましたのでレベルはかなり違うのですが、シネーの境地に相当する集中状態ができればとりあえず一般的なグルとしてはやっていけるように思いました。
まあ、そのグルが今世でもどうやらヨーガのグルをしており、いわゆるスワミになっていることに以前気がついたのですが、相変わらず、あの人懐っこさというか仕草の可愛さはおそらく昔のままだったように思います。向こうはこちらのことに気がついていないようでしたけど、まあ、こんなこと言ってもしょうがないので言っていません。向こうが気がついたら話すかもしれませんが、話したところでどうしようもないので話す必要もないのです。
どうも、見るからにその当時に到達した意識より上にはまだ行けていないようでした。ですがまあ、基本はできているので良いかな、と。
弟子はもっとたくさんいてそれぞれなのですが、中には、能力をもらったらすぐに故郷に帰るつもりで来たが自分が修行しないといけない上に時間がかかることを知って不愉快になり、数ヶ月もしないうちに出て行くような弟子もいました。まあ、そういう人はどこにでもいますので帰ってもらうしかありません。
その寺院では日々、町の人々の相談を受け付けていました。今もよくある人生相談で、就職や結婚や引越しや、様々な相談事にのっていたのです。未来予知して千里眼でしたので大体のことは的中して正確に伝えることができましたが、それでも、たまには間違うこともあったようで、その原因はわからないことがほとんどでした。上に書きましたように大体90%~95%は的中ですけど、時々、間違えます。
間違えるというよりは、おそらく、時間差の間に誰かの意思が入ってタイムラインをねじ曲げられてしまったのだ、という理解をしております。こればっかりは仕方がありません。人々がタイムライン上で大人しくしてくれる場合が多いとはいえ、常にそうとは限りませんし。
特に現代ですとタイムラインをねじ曲げられることが増えているように思いますので、昔より当たらなくなったような気が致します。
そうして相談に乗って、お布施をもらって資金にしておりました。お布施は金額が自由でしたが弟子たちと共に生活するには不自由なかったように思います。
時々、遠くから著名な方も見えられて、なかなか楽しいグル生活だったように思います。
・・・まあ、証拠とかはないので、とりあえず、夢のお話と思っておいて頂ければと思います。
秘術を用いてクンダリーニを開花させない方が良い
クンダリーニとは自然に動き出すものですから、秘術を用いて無理に動かそうとしない方が良いと思います。そうして無理に動かすからクンダリーニ症候群になったりもするわけです。
私も以前はクンダリーニのことが謎で色々と調べもしましたし、簡単なものは少し試したりもしました。しかし、あまり深入りしないでいて良かったと思っております。
ヨガにしても私がやっているのはごくごく初歩の呼吸法(プラナヤーマ)と簡単なアサナ(体操)くらいですし、いわゆる上級の呼吸法(プラナヤーマ)はあまり興味がありませんし、そもそも私は鼻の通りが悪い上に最近はクンバカが苦手ですので上級なんてとても無理です。クンバカの持続時間には計算式があって、特にクンダリーニ覚醒後はエネルギーが高まりましたので「器」が足りなくなってクンバカがすぐに苦しくなってしまいます。30秒持てば良い方です。クンダリーニ覚醒前は1分数十秒はいけたと思います。もともとクンバカ苦手でしたけど、クンダリーニ覚醒後は全然長く保てません。
私がやっていることはせいぜいそんな簡単なプラナヤーマ(呼吸法)とアサナ(体操)くらいです。ですから、秘術というほどでもありませんが、それでも十分だと言えます。
それは、そもそもクンダリーニの覚醒には秘術は必要ない、ということが理解できたからです。
クンダリーニの覚醒方法には2種類あると思います。
・秘術を用いる。ヨーガや魔術などスピリチュアルな手法。
・浄化する
前者の手法は、浄化せずともクンダリーニ覚醒しますが、制御が難しくなってクンダリーニ症候群になったりします。
後者であれば自然にクンダリーニが活性化します。
そもそも、順番として2つの潮流があると思います。
・クンダリーニを活性化させてから浄化する。
・浄化してから(自然に)クンダリーニ活性化させる。
ヨーガや魔術、スピリチュアルで盛んに行われているのは前者の方で、まずクンダリーニを活性化しようと秘術を用います。
しかし、私の理解したところによりますと、浄化をすればクンダリーニは自然に動き出すのです。
クンダリーニという特別なエネルギーがあるわけではなく、体の中のエネルギーが高まる時に感じるものを俗にクンダリーニと呼んでいるだけのことです。
ですから、最初からエネルギーが高まっている人はクンダリーニ経験が起こらないわけです。
思いますに、エネルギーが元々低い人や浄化されていない人がクンダリーニ経験をするように感じられます。最初からかなりの浄化された状態でいる人はクンダリーニ経験が起こらない、というのが私の理解です。私の周囲にも、いつまで経ってもクンダリーニ経験起こらないと言っている人がいて、実のところは既に子供の頃からかなり浄化済の人でしたのでエネルギーが高まっており、いわゆるクンダリーニ経験後とさほど変わらないエネルギーをお持ちのお方もいらっしゃいます。ですから、クンダリーニ経験にこだわる必要は全くないのだと思います。
男の場合は概してエネルギーが低いのでクンダリーニ経験を経ることが多いように思います。一方、女性は最初からエネルギーが高まっている場合が多いような気が致します。
クンダリーニ経験のことが話題になるのは男性のことが多いというのも、このあたりの事情があるのかもしれません。ヨーガはそもそも男性のものであったわけで、それはこのような事情で男性がエネルギーを高めるための手法として生み出されてきた、という歴史的背景もあるのではないかと推測致します。そう考えるのが筋が通っています。
最近ではヨーガのグルであっても浄化を重視している人も増えてきたようですが、インドでは秘術を重視してクンダリーニ活性化させている方が大勢いらっしゃる感じが致します。私がインドのリシケシで通ったスクールのグルもそんな感じでしたね。
男のヨーガのグルがどこか浄化されていない部分を残しながらもクンダリーニが活性化して能力(シッディ)が現れたりしている状況を見て、私はどこか疑問に思っていました。それが、最近はふに落ちるようになりました。上記のように、秘法を用いてクンダリーニを活性化することはできますので、それ故に、ヨーガのグルが浄化し切ることなしにクンダリーニを動かすことができるのだと思います。
それを良しとするのか、本流ではないと見なすのか、それは各人の判断によると思います。私の場合は、浄化こそが重要と思いますので秘法を用いてクンダリーニ活性化することにあまり興味はありません。
秘術を用いてクンダリーニを開花させない方が良いというのは私の意見であって、秘術を用いたいのならば自分の好きにすれば良いと思っています。ですから、他人にどうこうすべきというつもりはありませんが、私は、クンダリーニより浄化が先だと思っておりますし、浄化せずにクンダリーニ覚醒させるから取り返しのつかない問題が起きるのだと思っています。
インドのとあるグルの物語でも浄化を重視して、秘法に頼ってはいませんでした。これが正しい姿なのだと思います。
基本はそうなのですが、クンダリーニを動かす秘術は避けるべきであっても、エネルギーのルート、ヨーガでいうナディの浄化の行法は有用だと思います。ですから、ヨーガの全てが悪いわけではなく、魔術の全てが悪いわけでもなく、スピリチュアルの全てが悪いわけではありません。まあ、当然ではありますが。
ナディの浄化に相当する行法は行うとすれば、瞑想もそうですし、呼吸法のプラナヤーマや体操のアサナにしても浄化が目的であれば十分に役に立ちます。危ないのはクンダリーニを無理に動かそうとすぐ秘術であり、例えばヨーガのバストリカ呼吸法や一部の魔術の手法になります。
まあ、そうは言いましても、止めてもやる人はやるでしょうし、別にそれを止める義理もないですし、もしかしたらうまく行くかもしれませんし、そういうのは個人が好きにすればいいのだと思っています。
私も以前はクンダリーニのことが謎で色々と調べもしましたし、簡単なものは少し試したりもしました。しかし、あまり深入りしないでいて良かったと思っております。
ヨガにしても私がやっているのはごくごく初歩の呼吸法(プラナヤーマ)と簡単なアサナ(体操)くらいですし、いわゆる上級の呼吸法(プラナヤーマ)はあまり興味がありませんし、そもそも私は鼻の通りが悪い上に最近はクンバカが苦手ですので上級なんてとても無理です。クンバカの持続時間には計算式があって、特にクンダリーニ覚醒後はエネルギーが高まりましたので「器」が足りなくなってクンバカがすぐに苦しくなってしまいます。30秒持てば良い方です。クンダリーニ覚醒前は1分数十秒はいけたと思います。もともとクンバカ苦手でしたけど、クンダリーニ覚醒後は全然長く保てません。
私がやっていることはせいぜいそんな簡単なプラナヤーマ(呼吸法)とアサナ(体操)くらいです。ですから、秘術というほどでもありませんが、それでも十分だと言えます。
それは、そもそもクンダリーニの覚醒には秘術は必要ない、ということが理解できたからです。
クンダリーニの覚醒方法には2種類あると思います。
・秘術を用いる。ヨーガや魔術などスピリチュアルな手法。
・浄化する
前者の手法は、浄化せずともクンダリーニ覚醒しますが、制御が難しくなってクンダリーニ症候群になったりします。
後者であれば自然にクンダリーニが活性化します。
そもそも、順番として2つの潮流があると思います。
・クンダリーニを活性化させてから浄化する。
・浄化してから(自然に)クンダリーニ活性化させる。
ヨーガや魔術、スピリチュアルで盛んに行われているのは前者の方で、まずクンダリーニを活性化しようと秘術を用います。
しかし、私の理解したところによりますと、浄化をすればクンダリーニは自然に動き出すのです。
クンダリーニという特別なエネルギーがあるわけではなく、体の中のエネルギーが高まる時に感じるものを俗にクンダリーニと呼んでいるだけのことです。
ですから、最初からエネルギーが高まっている人はクンダリーニ経験が起こらないわけです。
思いますに、エネルギーが元々低い人や浄化されていない人がクンダリーニ経験をするように感じられます。最初からかなりの浄化された状態でいる人はクンダリーニ経験が起こらない、というのが私の理解です。私の周囲にも、いつまで経ってもクンダリーニ経験起こらないと言っている人がいて、実のところは既に子供の頃からかなり浄化済の人でしたのでエネルギーが高まっており、いわゆるクンダリーニ経験後とさほど変わらないエネルギーをお持ちのお方もいらっしゃいます。ですから、クンダリーニ経験にこだわる必要は全くないのだと思います。
男の場合は概してエネルギーが低いのでクンダリーニ経験を経ることが多いように思います。一方、女性は最初からエネルギーが高まっている場合が多いような気が致します。
クンダリーニ経験のことが話題になるのは男性のことが多いというのも、このあたりの事情があるのかもしれません。ヨーガはそもそも男性のものであったわけで、それはこのような事情で男性がエネルギーを高めるための手法として生み出されてきた、という歴史的背景もあるのではないかと推測致します。そう考えるのが筋が通っています。
最近ではヨーガのグルであっても浄化を重視している人も増えてきたようですが、インドでは秘術を重視してクンダリーニ活性化させている方が大勢いらっしゃる感じが致します。私がインドのリシケシで通ったスクールのグルもそんな感じでしたね。
男のヨーガのグルがどこか浄化されていない部分を残しながらもクンダリーニが活性化して能力(シッディ)が現れたりしている状況を見て、私はどこか疑問に思っていました。それが、最近はふに落ちるようになりました。上記のように、秘法を用いてクンダリーニを活性化することはできますので、それ故に、ヨーガのグルが浄化し切ることなしにクンダリーニを動かすことができるのだと思います。
それを良しとするのか、本流ではないと見なすのか、それは各人の判断によると思います。私の場合は、浄化こそが重要と思いますので秘法を用いてクンダリーニ活性化することにあまり興味はありません。
秘術を用いてクンダリーニを開花させない方が良いというのは私の意見であって、秘術を用いたいのならば自分の好きにすれば良いと思っています。ですから、他人にどうこうすべきというつもりはありませんが、私は、クンダリーニより浄化が先だと思っておりますし、浄化せずにクンダリーニ覚醒させるから取り返しのつかない問題が起きるのだと思っています。
インドのとあるグルの物語でも浄化を重視して、秘法に頼ってはいませんでした。これが正しい姿なのだと思います。
基本はそうなのですが、クンダリーニを動かす秘術は避けるべきであっても、エネルギーのルート、ヨーガでいうナディの浄化の行法は有用だと思います。ですから、ヨーガの全てが悪いわけではなく、魔術の全てが悪いわけでもなく、スピリチュアルの全てが悪いわけではありません。まあ、当然ではありますが。
ナディの浄化に相当する行法は行うとすれば、瞑想もそうですし、呼吸法のプラナヤーマや体操のアサナにしても浄化が目的であれば十分に役に立ちます。危ないのはクンダリーニを無理に動かそうとすぐ秘術であり、例えばヨーガのバストリカ呼吸法や一部の魔術の手法になります。
まあ、そうは言いましても、止めてもやる人はやるでしょうし、別にそれを止める義理もないですし、もしかしたらうまく行くかもしれませんし、そういうのは個人が好きにすればいいのだと思っています。
オリンピックは永久にギリシャで開催すべき
もともとギリシャの文化なのだからどこかの島かどこかを恒久会場にして4年に一度行えばいいんですよ。それ以外の時は訓練場として提供すればいい。ホテルも臨時テントを多くして、このご時世だから観客も少なくするかテント泊でいい。値段を上げて少ない人数だけ会場に入れる。キャパシティオーバーにはしない。
ネットで見られる時代にわざわざ出向く必要はないし、映像の方がきちんと見られるし快適。本当に臨場感を味わいたい人は高い費用を払って出向けばいい。それだけのプレミアム感を出す。
世界を持ち回りでオリンピックなんて無駄でしかないですよ。もともと私は東京オリンピックに反対でしたし、オリンピックはないとずっと思っていましたし、そうは言っても地震か何かが原因だと思っていましたのでコロナが原因というのは予想外でしたが、ギリシャで毎回すべきとはずっと思っていました。
ギリシャは観光資源しか外貨を稼げないんですから、せっかくのオリンピック資源を有効に活用すればいいんですよ。そうすれば今回みたいにオリンピックで東京が大損することもない。
オリンピックを小さく行うとか言いながらアリのように利権に群がって採算割れさせるような経済感覚のない東京都には呆れ帰りますし、それが日本の産業の姿なのでしょう。
どんどんと公共支出が増えていって、そこから漏れた人が救われないという社会になりつつあります。どうせここまで公共支出を増やすなら年間100万円くらいのベーシックインカムにしてしまえばいいんですよ。普通に暮らせる人が増えればわざわざ理屈こねて公共支出をねじ込む必要もなくなります。ベーシックインカムにした途端、今まで無理難題を言って公共支出させてきたロビイストが激減して支出が減ると思いますけど、どうですかね。
理由があって公共支出を正当化できる社会なのですから、オリンピックという理由がなくなったらコロナを理由にしてベーシックインカムしてしまえばいいんですよ。なし崩し的にね。これはチャンスですよ。お金なんてただの政府からしてみたらただの数字ですし紙を刷るだけのお話です。アメリカに続けばいいんですよ。
そうすれば、支出の理由をつけるためにいらないオリンピックなんて誘致しなくても良くなる。
外国だってそうしますよ。となるとオリンピックなんてどこの国も要らなくなる。であればオリンピックの引き受け手がいなくなって、ギリシャに戻るしかなくなるじゃないですか。
オリンピックでたかが数週間のために莫大な投資をして、ほとんどの開催地が採算取れなくて赤字なのですからやる意味があるのはまだインフラがない発展途上国だけです。それすらもきつい状況で、既にインフラがある会場を再利用するのならともかく、わざわざ東京に呼ぶ必要なんて全くないです。
昔オリンピックを体験した年寄りのノスタルジイに付き合って何兆円も支出するなんて呆れるどころか何考えているのかさっぱり分かりません。東京オリンピックなんていりません。
ギリシャで永久的に毎回開催するのが一番いいです。少なくとも日本ではもうオリンピックとか言っている時代ではないです。オリンピックとか言って騒ぎすぎですよ。利権があるから騒いでいるというのが大きいのではないですか。国民は、数多くあるイベントのうちの1つとしか思っていないと思いますよ。まあ、選手にとっては特別感はあるとは思いますけど、それはギリシャでやればいいことです。その方が歴史もあって更に特別感が出ると思いますよ。
あんまりね、一部の利権にばかり資金を流してばかりいて若者や貧困層にお金を渡さないでいると、まさかの暴動がここ日本で起きる可能性もありますよ。ここ50年ほどは経済の発展で不満が覆い隠されていましたけど、これだけ世界的に不景気になって、しかも日本の財政出動が一部の資産家や利権に偏ったものであるならば、政治家は油断し切っていて日本ではもはや暴動など起こらないと思っているでしょうけど暴動の火種は日本の各所で既に上がっているようにも思います。不満は蓄積されていて、それが今は自殺という形で内にこもっていますけど、それが外に出るとまさかの暴動という形で爆発すると思います。
既に駅や電車の中でコロナを発端としたいざこざは日常的に起きていますし、そもそもコロナ以前であっても経済悪化のために人々の振る舞いが駅や車内で悪くなっていました。以前のように反社会勢力という形ではなく、いわゆる普通の人々の怒りが駅や電車の中で爆発していると言えます。そのうっぷんは、オリンピックをしてメダルを沢山取ったくらいで晴れるものではないと思います。昔の東京オリンピックの頃はそれで日本に対して自信が持てたのでしょうが、今これから日本に自信を持たせるためには金メダルが2倍か3倍は取らないと無理だと思いますし、そんなには取れないのではないでしょうか。メダルが取れたとしても、オリンピックを見る余裕もない人には届きません。
そろそろ、オリンピックみたいな大型支出を控えてベーシックインカムじゃなくてもいいですけど全体に行き渡るような政策を考えないと本当に暴動が起こる前夜のような気がしております。
政治的には、このような不安定の時期によく戦争が起こります。そんな暴動の心配をする前に中国あたりが攻めてくる可能性もあります。これは割と本気で危ない時期になってきています。以前の好景気の状態ならばともかく、これだけ経済が悪化したら立て直すにはどこかの国の財産を没収するくらいしか回収する手立てはないからです。少なくとも中国あたりはそう思っている可能性は大いにあります。
オリンピックなんて早々にギリシャに返してしまって、国内の体勢を盤石にするのが先決だと思いますけどねえ。
ネットで見られる時代にわざわざ出向く必要はないし、映像の方がきちんと見られるし快適。本当に臨場感を味わいたい人は高い費用を払って出向けばいい。それだけのプレミアム感を出す。
世界を持ち回りでオリンピックなんて無駄でしかないですよ。もともと私は東京オリンピックに反対でしたし、オリンピックはないとずっと思っていましたし、そうは言っても地震か何かが原因だと思っていましたのでコロナが原因というのは予想外でしたが、ギリシャで毎回すべきとはずっと思っていました。
ギリシャは観光資源しか外貨を稼げないんですから、せっかくのオリンピック資源を有効に活用すればいいんですよ。そうすれば今回みたいにオリンピックで東京が大損することもない。
オリンピックを小さく行うとか言いながらアリのように利権に群がって採算割れさせるような経済感覚のない東京都には呆れ帰りますし、それが日本の産業の姿なのでしょう。
どんどんと公共支出が増えていって、そこから漏れた人が救われないという社会になりつつあります。どうせここまで公共支出を増やすなら年間100万円くらいのベーシックインカムにしてしまえばいいんですよ。普通に暮らせる人が増えればわざわざ理屈こねて公共支出をねじ込む必要もなくなります。ベーシックインカムにした途端、今まで無理難題を言って公共支出させてきたロビイストが激減して支出が減ると思いますけど、どうですかね。
理由があって公共支出を正当化できる社会なのですから、オリンピックという理由がなくなったらコロナを理由にしてベーシックインカムしてしまえばいいんですよ。なし崩し的にね。これはチャンスですよ。お金なんてただの政府からしてみたらただの数字ですし紙を刷るだけのお話です。アメリカに続けばいいんですよ。
そうすれば、支出の理由をつけるためにいらないオリンピックなんて誘致しなくても良くなる。
外国だってそうしますよ。となるとオリンピックなんてどこの国も要らなくなる。であればオリンピックの引き受け手がいなくなって、ギリシャに戻るしかなくなるじゃないですか。
オリンピックでたかが数週間のために莫大な投資をして、ほとんどの開催地が採算取れなくて赤字なのですからやる意味があるのはまだインフラがない発展途上国だけです。それすらもきつい状況で、既にインフラがある会場を再利用するのならともかく、わざわざ東京に呼ぶ必要なんて全くないです。
昔オリンピックを体験した年寄りのノスタルジイに付き合って何兆円も支出するなんて呆れるどころか何考えているのかさっぱり分かりません。東京オリンピックなんていりません。
ギリシャで永久的に毎回開催するのが一番いいです。少なくとも日本ではもうオリンピックとか言っている時代ではないです。オリンピックとか言って騒ぎすぎですよ。利権があるから騒いでいるというのが大きいのではないですか。国民は、数多くあるイベントのうちの1つとしか思っていないと思いますよ。まあ、選手にとっては特別感はあるとは思いますけど、それはギリシャでやればいいことです。その方が歴史もあって更に特別感が出ると思いますよ。
あんまりね、一部の利権にばかり資金を流してばかりいて若者や貧困層にお金を渡さないでいると、まさかの暴動がここ日本で起きる可能性もありますよ。ここ50年ほどは経済の発展で不満が覆い隠されていましたけど、これだけ世界的に不景気になって、しかも日本の財政出動が一部の資産家や利権に偏ったものであるならば、政治家は油断し切っていて日本ではもはや暴動など起こらないと思っているでしょうけど暴動の火種は日本の各所で既に上がっているようにも思います。不満は蓄積されていて、それが今は自殺という形で内にこもっていますけど、それが外に出るとまさかの暴動という形で爆発すると思います。
既に駅や電車の中でコロナを発端としたいざこざは日常的に起きていますし、そもそもコロナ以前であっても経済悪化のために人々の振る舞いが駅や車内で悪くなっていました。以前のように反社会勢力という形ではなく、いわゆる普通の人々の怒りが駅や電車の中で爆発していると言えます。そのうっぷんは、オリンピックをしてメダルを沢山取ったくらいで晴れるものではないと思います。昔の東京オリンピックの頃はそれで日本に対して自信が持てたのでしょうが、今これから日本に自信を持たせるためには金メダルが2倍か3倍は取らないと無理だと思いますし、そんなには取れないのではないでしょうか。メダルが取れたとしても、オリンピックを見る余裕もない人には届きません。
そろそろ、オリンピックみたいな大型支出を控えてベーシックインカムじゃなくてもいいですけど全体に行き渡るような政策を考えないと本当に暴動が起こる前夜のような気がしております。
政治的には、このような不安定の時期によく戦争が起こります。そんな暴動の心配をする前に中国あたりが攻めてくる可能性もあります。これは割と本気で危ない時期になってきています。以前の好景気の状態ならばともかく、これだけ経済が悪化したら立て直すにはどこかの国の財産を没収するくらいしか回収する手立てはないからです。少なくとも中国あたりはそう思っている可能性は大いにあります。
オリンピックなんて早々にギリシャに返してしまって、国内の体勢を盤石にするのが先決だと思いますけどねえ。
ミケランジェロを幽体離脱で見たお話
<幽体離脱や夢で見たお話ですので本当かどうかはわかりません>
▪️ミケランジェロと荘園
ミケランジェロは荘園を持っていて、連絡してから行くと綺麗にしてあるのに何処かに寄った帰りにふと立ち寄ると荒れていて管理人を叱り付けたこととか。それを何度か繰り返したら管理人も小作人もしっかり作業するようになったとか。どうやら急にアポイントなしで行くのが重要だったようです。
元々ね、よその農園ではどんどんと農地の面積を増やしていて生産量を増やしていたりしまして、ミケランジェロの農園でも増やそうということになって増やしていたんですよね。でも、それはミランジェロが望んだというわけでではなくて農園の管理者から増やしますからと言われたので「わかった」と答えただけのことです。そうして増やしていったわけですけど、管理が行き届かなくなってしまったわけですね。
管理者からは、このくらい荒れていても作物は増やします、ということを言われたわけですけれどもミケランジェロは納得しなくて、自分は芸術家だから、生産量よりも農地が美しいことの方が重要で、晴れている日はしっかりと見回りをして綺麗にするように、そして、もしそれが大変だというのならば作物の面積を減らしても良いと伝えました。そもそも、管理者が増やすと言ったから許可しただけで、自分は農地を増やしてくれとは言っていない、今の収穫量でも十分足りている、と伝えて、そのようにさせました。
その後、かなり綺麗になってミケランジェロも満足したようです。
農地で作物がうまく育たなかった年は出荷を減らしても良いかどうか聞かれたりして、その度に行って様子を見ていたりしましたね。晩年になると割と管理者に任せっきりになっていた気がしますが、若い頃はよく見に行っていた気が致します。
それとか、有名なピエタ像を作った時は未来を透視しながら彫ったこととか。ミケランジェロ的には、大理石とその未来の姿をトレースしつつ良いデザインになるべく彫っていったようです。未来を見るのは確認のためで、基本的には頭の中で映像をイメージしつつ構図を決めていました。
そのような作成スタイルでしたから、弟子の希望があったとしても同様に頭の中で映像をイメージできないような弟子希望に対してはなす術がなかったようです。頭の中でイメージしろ、と言っても弟子の中にはそもそもそれができない人も大勢いた... と言いますかその大多数がそうだったわけで、頭の中でイメージして構図を決めるミケランジェロのスタイルについていけなかったようです。
サン・ピエトロ大聖堂の広場か何かを作った時も頭の中でイメージを先に作ってスケッチしたので理想的な設計にするのも容易だったようです。芸術家は頭の中でのイメージが先に必要のようですね。
女性関係はあまり噂がなかったミケランジェロでしたが、基本的に芸術が興味の本筋でしたのでそれに集中していた感じです。後年に付き合いのあった未亡人に関しては、気高さと礼儀正しさそして美しさに惹かれたようです。
まあ、記憶を辿れることとグループソウルかどうかは別のお話で、私のグループソウルとの関係は結局は今のところ分からずじまいです。なんとなくそんな気もしないでもないですけど、そのくらいです。
昔バチカンに旅行した時にピエタ像は見ましたし、ダビデ像も見て素晴らしいと思いましたが自分のグループソウルの記憶はその時は出てこなかったような気が致します。
まあ、必要があれば思い出すでしょうし、特に思い出さなくても問題ないお話でもあります。
▪️ミケランジェロの制作の仕方
ミケランジェロがピエタ像を制作している時、同人が生まれる前に人生を計画して... と言いますか、グループソウルというかツインソウルに近い魂の片割れが手助け... というかほとんど自分自身の魂というかスピリットというか霊人ではありますので手助けというか高次の自分、いわゆるハイヤーセルフと言いますか、ミドルセルフと言いますか、そのような高い視点を持ったスピリットが共同作業していたようです。
ミケランジェロがピエタ像を制作する際、スピリットがあらかじめ青写真を描いていました。それは理想的な女性とイエスの姿だったわけですが、その青写真をミケランジェロに伝え、その上で、大理石のどの部分を使えば理想的な模様になるのかスピリットが細かく確認しつつ、スピリットも未来と現在を行き来して... と言いますか未来を確認しつつインスピレーションをミケランジェロに送っていたようです。ですから、ミケランジェロが未来を見れたというよりはこの場合はスピリットの方が未来を見てミケランジェロに伝えていた、という構造のようです。
スピリットはかなりピエタ像に入れ込んでおり、かなり苦労して構図を作って細かく確認してミケランジェロに何度も何度も伝えて... ということをしていたようです。エネルギー的にはかなりのものが必要であり、どうやら、ピエタ像それ自身に自分が入りたい、という意識も多少はあったようです。ですからいまピエタ像を見てもまるで生きているかのような気がするのは、実際、そこにスピリットが入り込んでいるからだと思います。この、入り込んでいるスピリットはミケランジェロのグループソウルのスピリットと、それに類した、共感をしたスピリットのようです。ただ、この試みはある程度は成功しましたが、あまりにも多くの人に見られたが故に他の人のスピリットも入り込んだり、あるいは、意識が他の人に多少抜かれたりして、スピリットにとってはあまり快適な結果になっていないようです。
ですからピエタ像は特別で、その後もスピリットは手助けをしましたが、スピリットにも興味の方向はありまして、手助けをするのは相当なエネルギーを必要としますので次のピエタ像ですとかスピリットがそれほど興味の持てない作品の場合はそこそこの手助けあるいはミケランジェロ自身が頑張って作る、というような場合もあったようです。
▪️ミケランジェロと織田信長
ミケランジェロと織田信長は生存期間が被っておりますがおそらく織田信長の後にミケランジェロとして時空を超えて被って転生しており、どちらも同じグループソウルの一部、同じグループソウルから分かれた分霊同士だとするとミケランジェロが教皇に対して時には反抗的な態度を取っていたことも理解できます。時代的には後にはなりますが、もしかしたら... 確証はないですけど織田信長本人は本能寺の変を逃れてバチカンに行ったタイムラインもあるような気もしておりまして、その時に教皇が意外に金で動く人ということを知って、ある意味、幻滅もしつつ本性を知っていた可能性もあります。上の位をもらうためにはかなりの財産を寄付する必要があったようで、織田信長が持ち込んだ財産をどんどん教皇が寄付という形で奪ってゆきました。そうは言っても教会ですから純粋に神を求めている人もいて、そのようなところで織田信長は感化されたようです。今まで織田信長は、自分の命令には必ず従うという人をあごで使ってきたわけですが、人望という面で、もっと学ぶものがあるという認識が生まれた頃に寿命を迎えたようです。織田信長の教皇に対する評価は「金の亡者」で、寿命で死んだ時に「財産のほとんどを取られた」と言って憤っていたように思います。そんなグループソウルが、魂の世界では時空を超えておりますからグループソウルに合流して、ミケランジェロの魂に教皇に対する印象を与えていたようです。だからミケランジェロは教皇に対してどこか反抗的な部分があったわけです。
一般的な輪廻転生の考え方ですと生存期間が被っているだけであり得ないことになってしまいますが、あの世は時空を超えておりますので、もしやり直しのレッスンが必要であれば同じ時代に遡って再度生まれることも普通にありますし、時代を遡ることもあります。ですので、この場合は順番としては織田信長が先で、時代は遡りますがミケランジェロが後だったような感じも致します。これは転生という見方をすればそうですけど、グループソウルの分霊という見方であれば別に時代が被っていても不思議では全くないわけです。
....まあ、このあたり、確証はないです。もっと検証が必要なところです。
順番としてはその前後にヴェネチアあたりで大司教もしていたような気も致しますので、何気に色々とキリスト教とは関わりが深い感じです。今はキリスト教徒ではないですが。
■ピエタ像に宿った魂 [2020/4/7 追記]
ミケランジェロがピエタ像を作った時、もちろん肉体としては人間として生まれているわけですが、背後にいるスピリットの意図としては、そういう像を作ってその中でしばらく休憩したい、という気持ちがあったようです。
作成後、実際にスピリットが像に宿りました。しかし、あまりにも周囲が騒がしいのでゆっくりと休むことができず、結果としてはそこから出ることにしたようです。ですが、一部はまだ残ることを選んで、未だに魂がピエタ像に宿っているようです。
本当かどうかはわかりませんがミケランジェロのグループソウルに織田信長もいて、争いで疲れてバチカンで余生を過ごそうと思ったのに教皇が金の亡者で失望し、ミケランジェロにしても教皇の度重なる無茶な要求に疲れており、スピリットは時空を超えておりますので時系列としては前後するのですが、ミケランジェロに像を作らせて、ミケランジェロ自身の余生... と言いますか、時系列で並べると死後にスピリットが像に入る、というようにも見えるのですがスピリットは時空を超えておりますのでミケランジェロが像を作りながらそのスピリットがインスピレーションを与えて像を作らせてその中に死後の、と言いますか、時空を超えて同時代に存在している... という言い方も本当は違ってスピリットは時空を超えて普遍的に存在しているのですが、そのスピリットがミケランジェロのピエタ像の制作に関わって、その中に入って休もうとしたようなのです。
実際に入ったのは、色々とあって疲れておりましたので、休みたかった、ということのようです。ゆっくり休むための場所として、彫刻の中であればゆっくりと休めるのではないか、と思ったようです。
実際、ある程度は休めたものの、それだけで悟りを得られるほどの安らぎは得られなかったようです。数十年、あるいはもっと短かったでしょうか。一部は数百年のような気も致しますが、少しずつそこから抜け出て、一部はグループソウルに合流したり、あるいは別の転生をしているようです。
どうやら、まだ一部のスピリットはピエタ像に残って眠っており、それはある種の謎というか鍵を握っているとのことです。いま、ピエタ像はバチカンにあるようですが、そのミケランジェロのピエタ像に約500年の間眠り続けているスピリットが、今後、動く可能性があるとのことです。
動くとするならば、ミケランジェロや織田信長、あるいはジャンヌダルクなどの系統を継いだ魂として何か使命を帯びる可能性がありそうです。
▪️ミケランジェロと荘園
ミケランジェロは荘園を持っていて、連絡してから行くと綺麗にしてあるのに何処かに寄った帰りにふと立ち寄ると荒れていて管理人を叱り付けたこととか。それを何度か繰り返したら管理人も小作人もしっかり作業するようになったとか。どうやら急にアポイントなしで行くのが重要だったようです。
元々ね、よその農園ではどんどんと農地の面積を増やしていて生産量を増やしていたりしまして、ミケランジェロの農園でも増やそうということになって増やしていたんですよね。でも、それはミランジェロが望んだというわけでではなくて農園の管理者から増やしますからと言われたので「わかった」と答えただけのことです。そうして増やしていったわけですけど、管理が行き届かなくなってしまったわけですね。
管理者からは、このくらい荒れていても作物は増やします、ということを言われたわけですけれどもミケランジェロは納得しなくて、自分は芸術家だから、生産量よりも農地が美しいことの方が重要で、晴れている日はしっかりと見回りをして綺麗にするように、そして、もしそれが大変だというのならば作物の面積を減らしても良いと伝えました。そもそも、管理者が増やすと言ったから許可しただけで、自分は農地を増やしてくれとは言っていない、今の収穫量でも十分足りている、と伝えて、そのようにさせました。
その後、かなり綺麗になってミケランジェロも満足したようです。
農地で作物がうまく育たなかった年は出荷を減らしても良いかどうか聞かれたりして、その度に行って様子を見ていたりしましたね。晩年になると割と管理者に任せっきりになっていた気がしますが、若い頃はよく見に行っていた気が致します。
それとか、有名なピエタ像を作った時は未来を透視しながら彫ったこととか。ミケランジェロ的には、大理石とその未来の姿をトレースしつつ良いデザインになるべく彫っていったようです。未来を見るのは確認のためで、基本的には頭の中で映像をイメージしつつ構図を決めていました。
そのような作成スタイルでしたから、弟子の希望があったとしても同様に頭の中で映像をイメージできないような弟子希望に対してはなす術がなかったようです。頭の中でイメージしろ、と言っても弟子の中にはそもそもそれができない人も大勢いた... と言いますかその大多数がそうだったわけで、頭の中でイメージして構図を決めるミケランジェロのスタイルについていけなかったようです。
サン・ピエトロ大聖堂の広場か何かを作った時も頭の中でイメージを先に作ってスケッチしたので理想的な設計にするのも容易だったようです。芸術家は頭の中でのイメージが先に必要のようですね。
女性関係はあまり噂がなかったミケランジェロでしたが、基本的に芸術が興味の本筋でしたのでそれに集中していた感じです。後年に付き合いのあった未亡人に関しては、気高さと礼儀正しさそして美しさに惹かれたようです。
まあ、記憶を辿れることとグループソウルかどうかは別のお話で、私のグループソウルとの関係は結局は今のところ分からずじまいです。なんとなくそんな気もしないでもないですけど、そのくらいです。
昔バチカンに旅行した時にピエタ像は見ましたし、ダビデ像も見て素晴らしいと思いましたが自分のグループソウルの記憶はその時は出てこなかったような気が致します。
まあ、必要があれば思い出すでしょうし、特に思い出さなくても問題ないお話でもあります。
▪️ミケランジェロの制作の仕方
ミケランジェロがピエタ像を制作している時、同人が生まれる前に人生を計画して... と言いますか、グループソウルというかツインソウルに近い魂の片割れが手助け... というかほとんど自分自身の魂というかスピリットというか霊人ではありますので手助けというか高次の自分、いわゆるハイヤーセルフと言いますか、ミドルセルフと言いますか、そのような高い視点を持ったスピリットが共同作業していたようです。
ミケランジェロがピエタ像を制作する際、スピリットがあらかじめ青写真を描いていました。それは理想的な女性とイエスの姿だったわけですが、その青写真をミケランジェロに伝え、その上で、大理石のどの部分を使えば理想的な模様になるのかスピリットが細かく確認しつつ、スピリットも未来と現在を行き来して... と言いますか未来を確認しつつインスピレーションをミケランジェロに送っていたようです。ですから、ミケランジェロが未来を見れたというよりはこの場合はスピリットの方が未来を見てミケランジェロに伝えていた、という構造のようです。
スピリットはかなりピエタ像に入れ込んでおり、かなり苦労して構図を作って細かく確認してミケランジェロに何度も何度も伝えて... ということをしていたようです。エネルギー的にはかなりのものが必要であり、どうやら、ピエタ像それ自身に自分が入りたい、という意識も多少はあったようです。ですからいまピエタ像を見てもまるで生きているかのような気がするのは、実際、そこにスピリットが入り込んでいるからだと思います。この、入り込んでいるスピリットはミケランジェロのグループソウルのスピリットと、それに類した、共感をしたスピリットのようです。ただ、この試みはある程度は成功しましたが、あまりにも多くの人に見られたが故に他の人のスピリットも入り込んだり、あるいは、意識が他の人に多少抜かれたりして、スピリットにとってはあまり快適な結果になっていないようです。
ですからピエタ像は特別で、その後もスピリットは手助けをしましたが、スピリットにも興味の方向はありまして、手助けをするのは相当なエネルギーを必要としますので次のピエタ像ですとかスピリットがそれほど興味の持てない作品の場合はそこそこの手助けあるいはミケランジェロ自身が頑張って作る、というような場合もあったようです。
▪️ミケランジェロと織田信長
ミケランジェロと織田信長は生存期間が被っておりますがおそらく織田信長の後にミケランジェロとして時空を超えて被って転生しており、どちらも同じグループソウルの一部、同じグループソウルから分かれた分霊同士だとするとミケランジェロが教皇に対して時には反抗的な態度を取っていたことも理解できます。時代的には後にはなりますが、もしかしたら... 確証はないですけど織田信長本人は本能寺の変を逃れてバチカンに行ったタイムラインもあるような気もしておりまして、その時に教皇が意外に金で動く人ということを知って、ある意味、幻滅もしつつ本性を知っていた可能性もあります。上の位をもらうためにはかなりの財産を寄付する必要があったようで、織田信長が持ち込んだ財産をどんどん教皇が寄付という形で奪ってゆきました。そうは言っても教会ですから純粋に神を求めている人もいて、そのようなところで織田信長は感化されたようです。今まで織田信長は、自分の命令には必ず従うという人をあごで使ってきたわけですが、人望という面で、もっと学ぶものがあるという認識が生まれた頃に寿命を迎えたようです。織田信長の教皇に対する評価は「金の亡者」で、寿命で死んだ時に「財産のほとんどを取られた」と言って憤っていたように思います。そんなグループソウルが、魂の世界では時空を超えておりますからグループソウルに合流して、ミケランジェロの魂に教皇に対する印象を与えていたようです。だからミケランジェロは教皇に対してどこか反抗的な部分があったわけです。
一般的な輪廻転生の考え方ですと生存期間が被っているだけであり得ないことになってしまいますが、あの世は時空を超えておりますので、もしやり直しのレッスンが必要であれば同じ時代に遡って再度生まれることも普通にありますし、時代を遡ることもあります。ですので、この場合は順番としては織田信長が先で、時代は遡りますがミケランジェロが後だったような感じも致します。これは転生という見方をすればそうですけど、グループソウルの分霊という見方であれば別に時代が被っていても不思議では全くないわけです。
....まあ、このあたり、確証はないです。もっと検証が必要なところです。
順番としてはその前後にヴェネチアあたりで大司教もしていたような気も致しますので、何気に色々とキリスト教とは関わりが深い感じです。今はキリスト教徒ではないですが。
■ピエタ像に宿った魂 [2020/4/7 追記]
ミケランジェロがピエタ像を作った時、もちろん肉体としては人間として生まれているわけですが、背後にいるスピリットの意図としては、そういう像を作ってその中でしばらく休憩したい、という気持ちがあったようです。
作成後、実際にスピリットが像に宿りました。しかし、あまりにも周囲が騒がしいのでゆっくりと休むことができず、結果としてはそこから出ることにしたようです。ですが、一部はまだ残ることを選んで、未だに魂がピエタ像に宿っているようです。
本当かどうかはわかりませんがミケランジェロのグループソウルに織田信長もいて、争いで疲れてバチカンで余生を過ごそうと思ったのに教皇が金の亡者で失望し、ミケランジェロにしても教皇の度重なる無茶な要求に疲れており、スピリットは時空を超えておりますので時系列としては前後するのですが、ミケランジェロに像を作らせて、ミケランジェロ自身の余生... と言いますか、時系列で並べると死後にスピリットが像に入る、というようにも見えるのですがスピリットは時空を超えておりますのでミケランジェロが像を作りながらそのスピリットがインスピレーションを与えて像を作らせてその中に死後の、と言いますか、時空を超えて同時代に存在している... という言い方も本当は違ってスピリットは時空を超えて普遍的に存在しているのですが、そのスピリットがミケランジェロのピエタ像の制作に関わって、その中に入って休もうとしたようなのです。
実際に入ったのは、色々とあって疲れておりましたので、休みたかった、ということのようです。ゆっくり休むための場所として、彫刻の中であればゆっくりと休めるのではないか、と思ったようです。
実際、ある程度は休めたものの、それだけで悟りを得られるほどの安らぎは得られなかったようです。数十年、あるいはもっと短かったでしょうか。一部は数百年のような気も致しますが、少しずつそこから抜け出て、一部はグループソウルに合流したり、あるいは別の転生をしているようです。
どうやら、まだ一部のスピリットはピエタ像に残って眠っており、それはある種の謎というか鍵を握っているとのことです。いま、ピエタ像はバチカンにあるようですが、そのミケランジェロのピエタ像に約500年の間眠り続けているスピリットが、今後、動く可能性があるとのことです。
動くとするならば、ミケランジェロや織田信長、あるいはジャンヌダルクなどの系統を継いだ魂として何か使命を帯びる可能性がありそうです。
経済活動とエネルギー
昨今はデフレ商売が大人気で、安い単価を回転数上げて販売することで利益を出すという経営手法が盛り上がっているようです。例えば床屋が従来は散髪2,000円のところを短い時間にして1,000円にして回転数を上げたり、レストランやバーを立食にすることで回転率を上げようとしています。
経済のことは経済学者が好きに論じればいいとは思いますが、私の興味があるのはエネルギー的な部分です。
もともと美容師が1時間をかけて1人散髪して客が来なければ暇をしていた状況と、客が途絶えずに1時間に3人も4人も扱う状況ではエネルギー的には前者の方が消費が少ないです。
長い時間をかければ体力は使うにしても、体に宿っているエネルギーは平準するまで高い方から低い方に流れますから、1人散髪するとエネルギーがザーっと片方から片方に流れて平準します。1時間をかけて1人散髪するのであれば1時間に1回ですみますが、1時間に3人も4人も散髪する場合、エネルギーの移動が1時間に3回も4回も起こるわけです。
ましてや、そのような安いお店に来るお客は、言ってはなんですが客層も悪いですのでエネルギーも割合に低いことが多く、美容師のエネルギーはどんどんと吸い取られてゆきます。
美容師のエネルギーが下がっている時にそのような散髪屋に行くと、お客の方がエネルギーが高いということにもなりますから美容師にエネルギーを吸い取られます。デフレ商売のお店に行くことは、安いように見えて実はエネルギーも提供していることになりますから、いわば、エネルギーをお金の変わりに支払っていることにもなります。
散髪屋だけでなく、コンビニや雑貨店にしても同じことです。マッサージ屋などは人に触れますので同様のエネルギー移動が起きやすいです。人に触れなくても接客して近くに行くだけでエネルギーの移動は短時間であっても起こりますし、散髪やマッサージのように体の部分が接触する場合はかなりのエネルギー的な平準が起こります。
エネルギーで分かりにくければ、時間と考えても良いです。長時間労働でいくら稼いでも、時間というのは万人に共通で増やすことができませんから、お金よりも実は時間の方が価値があるのです。その、最も価値の高い時間を提供してわずかながらのお金を手に入れるということが価値ある行動でしょうか。
経済の理屈だけ言って回転数を上げると儲かる、というのは、従業員を犠牲にして成り立っているわけです。
であれば、デフレ商売というのは従業員を犠牲にして成り立つ商売である、という視点がエネルギー的には成り立ちます。お金的にはそれなりの報酬が与えられているのかもしれませんが、それはバランスというもので、エネルギーよりも報酬の方が良いというのであればそうすればいいと思います。しかし、デフレ商売で客単価が低ければ賃金もそれなりなことが多いのではないでしょうか。
デフレ商売がそういう構造であれば、デフレ商売的には時間をなるべく長く働いてもらった方が会社は儲かりますし、従業員は賃金はぼちぼち増えますが、従業員のエネルギーは吸い取られて行って枯渇します。
デフレ商売のお店の従業員が疲れた表情をしていることが多い気が私はするのですが、きっとこのようなことであろうと思っています。
従業員のエネルギーを吸い取るのであれば、それは次々に「安い」「若者」を注ぎ込む必要がありますので、人口が増えている時代の商売方法、あるいは、ある程度蓄えのある中年を使い捨てにする商法であるように思えます。少なくともエネルギー的な観点からはそう思えます。
私は経済学者ではありませんが、エネルギー的な観点から良いと思われる商売方法の基本は以下です。
・お金の仕組みはそのまま。
・お金の位置付けを、今の「権利」から「歯止め」に変える。
・お金を、贅沢に歯止めをかけるためのものにする。
・お金を稼ぎたい人の自由は今まで通り守る。
・贅沢をしたい人の権利は守る。
・基本的な生活は安価にする。
これだけで、労働時間は短くなり、おそらくは6時間労働で済むのではないでしょうか。
更には、理想的には以下のような仕組みも取り入れたらいいかと思います。
・年間百万円くらいはベーシックインカムにて与える。
・週の決まった時間にボランティア無償活動で地域の共同作業を行う。
・現在の公共事業をある程度はこのボランティア無償活動に置き換える。
このくらいまで行ければ、生活がガラリと変わると思います。
今、日本で資本主義に対してどうこう言っている人の中には人々の価値観に訴えかけている人が多すぎると思います。例えば、お金を稼ぐことに対する価値観や、お金を稼がないことに対する価値観、自由な時間を費やすことに対する価値観をベースにしていてはいつまで経ってもシステムの同意を得られることはないと思います。
例えば、苦しい生活の感情に訴えてあまり働かなくても良い世界の価値観を訴えたとしても、それは働くことで裕福になってきた価値観を持つ人の心には響かないわけです。
システムとしては、価値観に訴えるものではなく、多くの選択肢を生み出すことができるものである必要があります。
であれば、現在のように挑戦をしたい人はいくらでも挑戦できて、お金を稼いで贅沢をしたい人はいくらでも贅沢ができるが、お金とは別のところで幸せを追求したい人に対しても選択肢を与える世界こそが豊かな世界であると思うのです。
そのために、例えば上記のようなちょっとした価値観の転換をするだけでこの世界は随分と幸せで豊かになると思います。
エネルギー的な転換は、現在ヒエラルキーの頂点に立って搾取している人にとっては苦痛かもしれませんが、どちらにせよ、死んでしまえば次の転生がどのような経済状況かなんてわからないのですから全員がそれなりに幸せに暮らせる人生にしておくことこそが回り回って自分の幸せに繋がると思います。以前にも書きましたが、あまりにも恨まれている場合は次の転生で裕福な家庭の赤ちゃんとして魂が入った後にですら無理やりひっぺがしてインドとかのスラム街の赤ちゃんの中に魂を放り込まれる、なんてこともありますから、あまりヒエラルキーの頂点で恨まれるような人生を歩まない方がいいと思います。あの世には時間とかあんま関係ないですから瞑想状態あるいは幽体離脱というかスピリットがその気になれば時空を超えてすぐにでも来世のこういう操作ができてしまいますから、まあ、恨みを買うようなことはしない方がいいと思います。
まずは、現在の支配者層による意識の転換が必要ですね。国民にお金を渡したら働いてくれなくなってしまうのではないかという心配は実のところあまり必要なくて、年間百万円くらいでしたら欲望を満たすことができませんので欲望のある人は働き続ける筈ですし、家庭があって子供でもいたら絶対足りませんし、あくまでも社会のベースとしてのベーシックインカムであるわけです。その分、無償のボランティア活動をしなくてはならない社会に遷移することで実際の労働人口は増えるかもしれません。今現在に働いていない人もボランティアとして駆り出されるわけですからね。そのように、実体経済とは違うところで緩い労働をしてもらっても十分現在の世の中は回ると思います。それほど物が足りない時代でもありませんし、ある程度の労働さえすれば世の中は普通に回ります。意外に平気なものです。慣性で長時間労働していただけで、意外にそんな働く必要がなかったのだと気付きさえすればいいだけだとも言えます。
激しく働きたい人の権利さえ侵害しなければ十分に自由を満喫できる世界へと移行できる筈です。
コロナなんていいきっかけで、なし崩し的にベーシックインカムの月10万円支給の世界へと突入してしまえば時代は一気に変わります。
日本よりアメリカが先にやってしまうかもしれないですね。
経済のことは経済学者が好きに論じればいいとは思いますが、私の興味があるのはエネルギー的な部分です。
もともと美容師が1時間をかけて1人散髪して客が来なければ暇をしていた状況と、客が途絶えずに1時間に3人も4人も扱う状況ではエネルギー的には前者の方が消費が少ないです。
長い時間をかければ体力は使うにしても、体に宿っているエネルギーは平準するまで高い方から低い方に流れますから、1人散髪するとエネルギーがザーっと片方から片方に流れて平準します。1時間をかけて1人散髪するのであれば1時間に1回ですみますが、1時間に3人も4人も散髪する場合、エネルギーの移動が1時間に3回も4回も起こるわけです。
ましてや、そのような安いお店に来るお客は、言ってはなんですが客層も悪いですのでエネルギーも割合に低いことが多く、美容師のエネルギーはどんどんと吸い取られてゆきます。
美容師のエネルギーが下がっている時にそのような散髪屋に行くと、お客の方がエネルギーが高いということにもなりますから美容師にエネルギーを吸い取られます。デフレ商売のお店に行くことは、安いように見えて実はエネルギーも提供していることになりますから、いわば、エネルギーをお金の変わりに支払っていることにもなります。
散髪屋だけでなく、コンビニや雑貨店にしても同じことです。マッサージ屋などは人に触れますので同様のエネルギー移動が起きやすいです。人に触れなくても接客して近くに行くだけでエネルギーの移動は短時間であっても起こりますし、散髪やマッサージのように体の部分が接触する場合はかなりのエネルギー的な平準が起こります。
エネルギーで分かりにくければ、時間と考えても良いです。長時間労働でいくら稼いでも、時間というのは万人に共通で増やすことができませんから、お金よりも実は時間の方が価値があるのです。その、最も価値の高い時間を提供してわずかながらのお金を手に入れるということが価値ある行動でしょうか。
経済の理屈だけ言って回転数を上げると儲かる、というのは、従業員を犠牲にして成り立っているわけです。
であれば、デフレ商売というのは従業員を犠牲にして成り立つ商売である、という視点がエネルギー的には成り立ちます。お金的にはそれなりの報酬が与えられているのかもしれませんが、それはバランスというもので、エネルギーよりも報酬の方が良いというのであればそうすればいいと思います。しかし、デフレ商売で客単価が低ければ賃金もそれなりなことが多いのではないでしょうか。
デフレ商売がそういう構造であれば、デフレ商売的には時間をなるべく長く働いてもらった方が会社は儲かりますし、従業員は賃金はぼちぼち増えますが、従業員のエネルギーは吸い取られて行って枯渇します。
デフレ商売のお店の従業員が疲れた表情をしていることが多い気が私はするのですが、きっとこのようなことであろうと思っています。
従業員のエネルギーを吸い取るのであれば、それは次々に「安い」「若者」を注ぎ込む必要がありますので、人口が増えている時代の商売方法、あるいは、ある程度蓄えのある中年を使い捨てにする商法であるように思えます。少なくともエネルギー的な観点からはそう思えます。
私は経済学者ではありませんが、エネルギー的な観点から良いと思われる商売方法の基本は以下です。
・お金の仕組みはそのまま。
・お金の位置付けを、今の「権利」から「歯止め」に変える。
・お金を、贅沢に歯止めをかけるためのものにする。
・お金を稼ぎたい人の自由は今まで通り守る。
・贅沢をしたい人の権利は守る。
・基本的な生活は安価にする。
これだけで、労働時間は短くなり、おそらくは6時間労働で済むのではないでしょうか。
更には、理想的には以下のような仕組みも取り入れたらいいかと思います。
・年間百万円くらいはベーシックインカムにて与える。
・週の決まった時間にボランティア無償活動で地域の共同作業を行う。
・現在の公共事業をある程度はこのボランティア無償活動に置き換える。
このくらいまで行ければ、生活がガラリと変わると思います。
今、日本で資本主義に対してどうこう言っている人の中には人々の価値観に訴えかけている人が多すぎると思います。例えば、お金を稼ぐことに対する価値観や、お金を稼がないことに対する価値観、自由な時間を費やすことに対する価値観をベースにしていてはいつまで経ってもシステムの同意を得られることはないと思います。
例えば、苦しい生活の感情に訴えてあまり働かなくても良い世界の価値観を訴えたとしても、それは働くことで裕福になってきた価値観を持つ人の心には響かないわけです。
システムとしては、価値観に訴えるものではなく、多くの選択肢を生み出すことができるものである必要があります。
であれば、現在のように挑戦をしたい人はいくらでも挑戦できて、お金を稼いで贅沢をしたい人はいくらでも贅沢ができるが、お金とは別のところで幸せを追求したい人に対しても選択肢を与える世界こそが豊かな世界であると思うのです。
そのために、例えば上記のようなちょっとした価値観の転換をするだけでこの世界は随分と幸せで豊かになると思います。
エネルギー的な転換は、現在ヒエラルキーの頂点に立って搾取している人にとっては苦痛かもしれませんが、どちらにせよ、死んでしまえば次の転生がどのような経済状況かなんてわからないのですから全員がそれなりに幸せに暮らせる人生にしておくことこそが回り回って自分の幸せに繋がると思います。以前にも書きましたが、あまりにも恨まれている場合は次の転生で裕福な家庭の赤ちゃんとして魂が入った後にですら無理やりひっぺがしてインドとかのスラム街の赤ちゃんの中に魂を放り込まれる、なんてこともありますから、あまりヒエラルキーの頂点で恨まれるような人生を歩まない方がいいと思います。あの世には時間とかあんま関係ないですから瞑想状態あるいは幽体離脱というかスピリットがその気になれば時空を超えてすぐにでも来世のこういう操作ができてしまいますから、まあ、恨みを買うようなことはしない方がいいと思います。
まずは、現在の支配者層による意識の転換が必要ですね。国民にお金を渡したら働いてくれなくなってしまうのではないかという心配は実のところあまり必要なくて、年間百万円くらいでしたら欲望を満たすことができませんので欲望のある人は働き続ける筈ですし、家庭があって子供でもいたら絶対足りませんし、あくまでも社会のベースとしてのベーシックインカムであるわけです。その分、無償のボランティア活動をしなくてはならない社会に遷移することで実際の労働人口は増えるかもしれません。今現在に働いていない人もボランティアとして駆り出されるわけですからね。そのように、実体経済とは違うところで緩い労働をしてもらっても十分現在の世の中は回ると思います。それほど物が足りない時代でもありませんし、ある程度の労働さえすれば世の中は普通に回ります。意外に平気なものです。慣性で長時間労働していただけで、意外にそんな働く必要がなかったのだと気付きさえすればいいだけだとも言えます。
激しく働きたい人の権利さえ侵害しなければ十分に自由を満喫できる世界へと移行できる筈です。
コロナなんていいきっかけで、なし崩し的にベーシックインカムの月10万円支給の世界へと突入してしまえば時代は一気に変わります。
日本よりアメリカが先にやってしまうかもしれないですね。
サマーディの不二の意識とシッディの謎解き
ヨーガでシッディと呼ばれるいわゆる超能力は悟りに至る副産物でありそれ自体を追い求めるものではないと良く言われます。ヨーガスートラでもそのようなシッディを求める態度を諫めております。
単語 シッディ は通常は力という意味だが、それは実際には進歩したヨーギの達成を意味 する。ヨガの力を習得することが目標ではないということを理解するのは生徒 にとって重要です。実際にそうではなく、そうすべきではありません。 それらは神に至るための努力の副産物です。 力だけを求めている人は自我に縛ら れ、最終的にこの浄化の欠如のために苦しんでいます。初心者の学生にとってはヨガの力を持つことはなかなか魅力がありますが、これは、力によって堕落 することがあるという理解に置き換えられます。最終的にそこで得られた力は、誠実なヨギにしてみたら単なる気晴らしや誘惑に過ぎないのです。「MEDITATION and Mantras(Swami Vishnu-Devananda著)」
それはそうだなと思うのですが、実際、サマーディやヴィパッサナーとシッディとの関係が今ひとつ腑に落ちないでいました。
基本的にはサマーディから現れるとなっています。ゾクチェンによる理解でも同様になっていました。
今回は、そのゾクチェンの続きです。
前回では基本的な理解としてサマーディと二元論を超えてサマーディに至ることが確認できました。理論的にはそれでスッキリしました。
同書を更に読み込んでいくと、現在の自分の状態との対比がよく分かります。仏教でもヨーガでも悟りやサマーディが語られていますが、ゾクチェンほど悟りに至る境地を詳しく表現しているものを見たことがありません。
ゾクチェンでは、基本的なサマーディ・ヴィパッサナー状態に達した後に何をすることで悟りに近づくのか明確に記してあります。
前回にも引用しましたが、まず、基本的な自分のサマーディ(三昧)の境地を日常生活のすべての行動に溶け合わせていくことが必要だと説明されています。
「セワ(sre-ba)」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧(サマーディ)の境地を日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
その後、前回に引用したようなチェルドル、シャルドル、ランドルと言う3つの能力が育ってくると言います。3つの能力を読むと色々と書いてありますけど、要はサマーディが深まってくる、と言うお話だと思います。
そして、明確に以下のように記してあります。
二元論の幻影は終わり、主体と客体の再統合をつうじて、修行者には五つの神通(ンゴンシェ mngon-shes)、つまり五つの「高度の知覚」があらわれてくる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
ここで現れるシッディは仏教やヨーガとほぼ共通のもので、千里眼などの能力です。似たような説明はヨーガや仏教にもありましたが、ゾクチェンはことのほか分かり易いです。
この経験が悟りに向かって深まっていくにしたがって、いくつかの能力があらわれてくる。だが、そういった能力がそもそも何なのかを理解するには、いかにして二元論の幻影が、諸感覚の主体ー客体の二極化によって維持されているのかを理解する必要がある。(中略)まず、視覚の場合を例にして考えてみよう。視覚は、視覚的な形態として知覚されるものと相互依存的に生じてくるし、また逆に、知覚される視覚的な形は、視覚能力と共に生じてくる。それと同じように聴覚と音はともに生じてくる。(中略)意識と存在は相互依存的に生じる。(中略)主体は潜在的に対象をふくみ、逆に対象は主体をふくみながら、二元論の幻影が自己を維持しているということ、そしてついには、意識をふくむあらゆる感覚が一体となって、知覚主体と切り離された外的世界の幻影をうみだしているようすが理解できる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
このお話、それ自体はヨーガや仏教でも語られています。しかし、シッディとは割と切り離された文脈で説明されているように思います。ゾクチェンではこの説明がシッディとサマーディのお話と有機的に繋がっているところが単なる理屈だけでなく実践者が多くいて生きている流派であることを感じさせるのです。
まずサマーディ(ヴィパッサナー)の基本的な状態で二元論の克服の入り口に至り、次に日常生活とサマーディを統合することで「観察(ヴィパッサナー)、サマーディの別の面」に至り、観察(ヴィパッサナー)・サマーディによって「解放する(二元論の克服)」(チェルドル、シャルドル、ランドルの3つの能力)ことを深め、二元論の幻想が解かれる過程でシッディが現れ、そして悟りに至るわけです。
ヨーガでは二元論の幻影の克服のお話が割と早い段階で論されますし割と有名なお話のようにも思いますが、それは本来はサマーディ後のお話であるわけです。
この順番であるならばサマーディや二元論の克服なしにシッディだけ求めても無駄な努力に終わることが明らかです。可能であるとすればそれは修行ではなく魔術や秘術の類ですから私はあまり興味がありません。一方で、せっかく二元論を克服しかけたのにシッディに囚われると悟りへの道を踏み外すと言うのも良く分かります。
ヨーガスートラなどではすごく簡単に、サマーディを達成すればシッディが得られる、としか書いておらず、仏教でも似たようなものだったのでなかなかに謎めいていたのですが、ゾクチェンはしっかりと書いてくれています。
であれば、私は日常生活におけるヴィパッサナー(サマーディ)をこのまま続ければ良いことが分かります。
単語 シッディ は通常は力という意味だが、それは実際には進歩したヨーギの達成を意味 する。ヨガの力を習得することが目標ではないということを理解するのは生徒 にとって重要です。実際にそうではなく、そうすべきではありません。 それらは神に至るための努力の副産物です。 力だけを求めている人は自我に縛ら れ、最終的にこの浄化の欠如のために苦しんでいます。初心者の学生にとってはヨガの力を持つことはなかなか魅力がありますが、これは、力によって堕落 することがあるという理解に置き換えられます。最終的にそこで得られた力は、誠実なヨギにしてみたら単なる気晴らしや誘惑に過ぎないのです。「MEDITATION and Mantras(Swami Vishnu-Devananda著)」
それはそうだなと思うのですが、実際、サマーディやヴィパッサナーとシッディとの関係が今ひとつ腑に落ちないでいました。
基本的にはサマーディから現れるとなっています。ゾクチェンによる理解でも同様になっていました。
今回は、そのゾクチェンの続きです。
前回では基本的な理解としてサマーディと二元論を超えてサマーディに至ることが確認できました。理論的にはそれでスッキリしました。
同書を更に読み込んでいくと、現在の自分の状態との対比がよく分かります。仏教でもヨーガでも悟りやサマーディが語られていますが、ゾクチェンほど悟りに至る境地を詳しく表現しているものを見たことがありません。
ゾクチェンでは、基本的なサマーディ・ヴィパッサナー状態に達した後に何をすることで悟りに近づくのか明確に記してあります。
前回にも引用しましたが、まず、基本的な自分のサマーディ(三昧)の境地を日常生活のすべての行動に溶け合わせていくことが必要だと説明されています。
「セワ(sre-ba)」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧(サマーディ)の境地を日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
その後、前回に引用したようなチェルドル、シャルドル、ランドルと言う3つの能力が育ってくると言います。3つの能力を読むと色々と書いてありますけど、要はサマーディが深まってくる、と言うお話だと思います。
そして、明確に以下のように記してあります。
二元論の幻影は終わり、主体と客体の再統合をつうじて、修行者には五つの神通(ンゴンシェ mngon-shes)、つまり五つの「高度の知覚」があらわれてくる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
ここで現れるシッディは仏教やヨーガとほぼ共通のもので、千里眼などの能力です。似たような説明はヨーガや仏教にもありましたが、ゾクチェンはことのほか分かり易いです。
この経験が悟りに向かって深まっていくにしたがって、いくつかの能力があらわれてくる。だが、そういった能力がそもそも何なのかを理解するには、いかにして二元論の幻影が、諸感覚の主体ー客体の二極化によって維持されているのかを理解する必要がある。(中略)まず、視覚の場合を例にして考えてみよう。視覚は、視覚的な形態として知覚されるものと相互依存的に生じてくるし、また逆に、知覚される視覚的な形は、視覚能力と共に生じてくる。それと同じように聴覚と音はともに生じてくる。(中略)意識と存在は相互依存的に生じる。(中略)主体は潜在的に対象をふくみ、逆に対象は主体をふくみながら、二元論の幻影が自己を維持しているということ、そしてついには、意識をふくむあらゆる感覚が一体となって、知覚主体と切り離された外的世界の幻影をうみだしているようすが理解できる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
このお話、それ自体はヨーガや仏教でも語られています。しかし、シッディとは割と切り離された文脈で説明されているように思います。ゾクチェンではこの説明がシッディとサマーディのお話と有機的に繋がっているところが単なる理屈だけでなく実践者が多くいて生きている流派であることを感じさせるのです。
まずサマーディ(ヴィパッサナー)の基本的な状態で二元論の克服の入り口に至り、次に日常生活とサマーディを統合することで「観察(ヴィパッサナー)、サマーディの別の面」に至り、観察(ヴィパッサナー)・サマーディによって「解放する(二元論の克服)」(チェルドル、シャルドル、ランドルの3つの能力)ことを深め、二元論の幻想が解かれる過程でシッディが現れ、そして悟りに至るわけです。
ヨーガでは二元論の幻影の克服のお話が割と早い段階で論されますし割と有名なお話のようにも思いますが、それは本来はサマーディ後のお話であるわけです。
この順番であるならばサマーディや二元論の克服なしにシッディだけ求めても無駄な努力に終わることが明らかです。可能であるとすればそれは修行ではなく魔術や秘術の類ですから私はあまり興味がありません。一方で、せっかく二元論を克服しかけたのにシッディに囚われると悟りへの道を踏み外すと言うのも良く分かります。
ヨーガスートラなどではすごく簡単に、サマーディを達成すればシッディが得られる、としか書いておらず、仏教でも似たようなものだったのでなかなかに謎めいていたのですが、ゾクチェンはしっかりと書いてくれています。
であれば、私は日常生活におけるヴィパッサナー(サマーディ)をこのまま続ければ良いことが分かります。
場をパワースポットに育てる
最近はパワースポット巡りが流行っているわけですけれども、それは精神的なものへの入り口として機能してはいますが、その先に、場を育てるというステージがあるわけです。
パワースポット巡りというのは消費の文化で、場所に溜まっているエネルギーを分けていただくということです。そこに竜神や神様が座っていらっしゃって、そのエネルギーを感じたり場所の清浄な空気を感じにいくことです。
パワースポット巡りは古くからは巡礼であり、祈りの気持ちを込めて行うものですが、最近は観光やスポーツ的になっているような気も致します。観光やスポーツで巡礼をする人が増えるほど神様や竜神が機嫌を損ね、そこに神様や竜神がいなくなってしまうとパワースポットではなくなってしまいます。
最初の最初は観光やスポーツ的でも構わない、と神様はおっしゃいます。しかし、来る人の割合が問題とのことです。少しの人が観光やスポーツ的で巡礼をしたところで、大多数が祈りの気持ちを持っていれば問題ない、ということです。そのくらい、神様は大目に見て下さいます。そのくらいの細かなことは神様は気にしません。ただ、割合が重要です。あまりにも観光やスポーツ的な人が増えると神様は不機嫌になります。不機嫌が過ぎると、そこから離れてしまいます。
そもそも、最初に神様や竜神様はいらっしゃらなくて、最初は祈りだけがありました。
その祈りが場を清浄にし、その範囲が広がることで神様や竜神様がいらっしゃることのできる土台が出来上がりました。そうして出来上がった場に、神様や竜神様が降りてきていただけたわけです。
その土台である祈りをないがしろにしてパワースポット巡りと称してエネルギーを奪うような気持ち・・・ 本人はそうは思ってらっしゃらないかもしれませんが、祈りなくしてご利益だけを求めるような気持ちで参拝する人が増えれば増えるほど場は乱れてゆきます。そうするうちに清浄な空気はなくなり、神様や竜神様は何処かへ行ってしまわれるのです。
このようなことはどうやら日本の各地で起こっているようで、登山禁止の巡礼の山にスポーツの登山で登る人が増えたことにより神様が怒って何処かへ行ってしまわれた、というような噂も耳にします。きっと本当のことなのでしょう。
逆に、自分の家やなんてことのない神社や仏閣であっても祈りの気持ちを込めて場を清浄にすれば神様は降りてきていただけるのです。
それは建物の素晴らしさとはあまり関係がなく、清潔さというものは必要ですが、基本的には場の雰囲気、清浄な空気というものが神様が降りてきてくださる前提条件になります。
自分の家であるとか、精神的な鍛錬の会場は祈りを込めた人々が清浄にするにつれてどんどんとエネルギーが高まってゆきます。そうして神様が降りてきて頂けるようになるわけです。場を育てて、エネルギースポットに変えるわけです。
古来からの有名なパワースポットは現代のパワースポット巡りで想念の「ゴミ捨て場」になっているところが多くあります。そこで祈りを込める人が少なくなったからです。一方で、ゴミを捨てる人より祈る人の方が多い場所、それはエネルギースポットに変わってゆきます。
基本は自宅で、自宅がパワースポットになり、精神的な鍛錬な会場もパワースポットになります。
それが基本で、パワースポットのエネルギーの高さを求めて彷徨うことは、上記のように現代はパワースポットが想念のゴミ捨て場になっているがためにあまりお勧めできない、と私の内なるガイドは示唆します。それでも、道を求めてパワースポットを巡ることは有益なのではないかと私は思ったりもするのですが、そこは、好きにすればいい、というのが内なるガイドの指示です。あまりパワースポットに行き過ぎずに、たまに導かれてゆくのは良いということなのかな、と理解しております。
パワースポット巡りというのは消費の文化で、場所に溜まっているエネルギーを分けていただくということです。そこに竜神や神様が座っていらっしゃって、そのエネルギーを感じたり場所の清浄な空気を感じにいくことです。
パワースポット巡りは古くからは巡礼であり、祈りの気持ちを込めて行うものですが、最近は観光やスポーツ的になっているような気も致します。観光やスポーツで巡礼をする人が増えるほど神様や竜神が機嫌を損ね、そこに神様や竜神がいなくなってしまうとパワースポットではなくなってしまいます。
最初の最初は観光やスポーツ的でも構わない、と神様はおっしゃいます。しかし、来る人の割合が問題とのことです。少しの人が観光やスポーツ的で巡礼をしたところで、大多数が祈りの気持ちを持っていれば問題ない、ということです。そのくらい、神様は大目に見て下さいます。そのくらいの細かなことは神様は気にしません。ただ、割合が重要です。あまりにも観光やスポーツ的な人が増えると神様は不機嫌になります。不機嫌が過ぎると、そこから離れてしまいます。
そもそも、最初に神様や竜神様はいらっしゃらなくて、最初は祈りだけがありました。
その祈りが場を清浄にし、その範囲が広がることで神様や竜神様がいらっしゃることのできる土台が出来上がりました。そうして出来上がった場に、神様や竜神様が降りてきていただけたわけです。
その土台である祈りをないがしろにしてパワースポット巡りと称してエネルギーを奪うような気持ち・・・ 本人はそうは思ってらっしゃらないかもしれませんが、祈りなくしてご利益だけを求めるような気持ちで参拝する人が増えれば増えるほど場は乱れてゆきます。そうするうちに清浄な空気はなくなり、神様や竜神様は何処かへ行ってしまわれるのです。
このようなことはどうやら日本の各地で起こっているようで、登山禁止の巡礼の山にスポーツの登山で登る人が増えたことにより神様が怒って何処かへ行ってしまわれた、というような噂も耳にします。きっと本当のことなのでしょう。
逆に、自分の家やなんてことのない神社や仏閣であっても祈りの気持ちを込めて場を清浄にすれば神様は降りてきていただけるのです。
それは建物の素晴らしさとはあまり関係がなく、清潔さというものは必要ですが、基本的には場の雰囲気、清浄な空気というものが神様が降りてきてくださる前提条件になります。
自分の家であるとか、精神的な鍛錬の会場は祈りを込めた人々が清浄にするにつれてどんどんとエネルギーが高まってゆきます。そうして神様が降りてきて頂けるようになるわけです。場を育てて、エネルギースポットに変えるわけです。
古来からの有名なパワースポットは現代のパワースポット巡りで想念の「ゴミ捨て場」になっているところが多くあります。そこで祈りを込める人が少なくなったからです。一方で、ゴミを捨てる人より祈る人の方が多い場所、それはエネルギースポットに変わってゆきます。
基本は自宅で、自宅がパワースポットになり、精神的な鍛錬な会場もパワースポットになります。
それが基本で、パワースポットのエネルギーの高さを求めて彷徨うことは、上記のように現代はパワースポットが想念のゴミ捨て場になっているがためにあまりお勧めできない、と私の内なるガイドは示唆します。それでも、道を求めてパワースポットを巡ることは有益なのではないかと私は思ったりもするのですが、そこは、好きにすればいい、というのが内なるガイドの指示です。あまりパワースポットに行き過ぎずに、たまに導かれてゆくのは良いということなのかな、と理解しております。
聖なる器としての体
先日の続きです。
体も同じこと。体を浄化してゆくとそれは聖なる器となり、神... というかスピリット、自らの高次の自分、自らのグループソウル、言い方は多様だが同じことで、そのようなものを受け入れる器になることができる。
私の内なるガイドによりますと精神修行の基本はここにあって、高次のスピリットを受け入れることができる器になるまでが第一段階とも言えるようです。
その次がスピリットとしての人生を開花させる段階であるようです。
いわば、器としての自分を育てるまでが低次の自分であり、それはヨーガなどの階梯に合わせるとサマーディ段階まで。サマーディの後にアートマンとの合一とか呼ばれている段階がありますが、これは言い方を変えると神が器に宿る段階とのことです。
ヨーガの定義には以下のようにあります。
1.3) 心の作用が死滅されてしまった時には、純粋観察者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」
この後半部分は多様に解釈できますが、神智学系の書物には以下のようにあります。
内なる神の認識に目覚める。(中略)魂との合一。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」
これは、文字通りそういうことなのかなと思います。
魂は最初からあるが覆い隠されていて、この段階になることで合一... と言いますか魂の意識、内なる神の認識に目覚めると言うことかなと思います。
まず最初に自らの器を作り、それから神の認識に目覚めるのだと解釈できます。
体も同じこと。体を浄化してゆくとそれは聖なる器となり、神... というかスピリット、自らの高次の自分、自らのグループソウル、言い方は多様だが同じことで、そのようなものを受け入れる器になることができる。
私の内なるガイドによりますと精神修行の基本はここにあって、高次のスピリットを受け入れることができる器になるまでが第一段階とも言えるようです。
その次がスピリットとしての人生を開花させる段階であるようです。
いわば、器としての自分を育てるまでが低次の自分であり、それはヨーガなどの階梯に合わせるとサマーディ段階まで。サマーディの後にアートマンとの合一とか呼ばれている段階がありますが、これは言い方を変えると神が器に宿る段階とのことです。
ヨーガの定義には以下のようにあります。
1.3) 心の作用が死滅されてしまった時には、純粋観察者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。「ヨーガ根本経典(佐保田 鶴治著)」
この後半部分は多様に解釈できますが、神智学系の書物には以下のようにあります。
内なる神の認識に目覚める。(中略)魂との合一。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」
これは、文字通りそういうことなのかなと思います。
魂は最初からあるが覆い隠されていて、この段階になることで合一... と言いますか魂の意識、内なる神の認識に目覚めると言うことかなと思います。
まず最初に自らの器を作り、それから神の認識に目覚めるのだと解釈できます。