瞑想中、自分の体と一部重なって、自分の少し前方に自分のスピリットがいるのを感じます。
形としてはほぼ自分と同様ですが、少し前方にズレていて、スピリットの体は肉体の体より少し大きくて、その、少し大きなスピリットの体が私の前方向に少しズレて浮遊して存在しています。
その前方にある少し大きなスピリットの意識が私の肉体及び顕在意識としての意思や思考を動かしているのを感じますが、まだ完全にスピリットが私の肉体及び顕在意識を制御しているというわけではなく、ほんの少し、ほのかにスピリットの意識を感じている状態です。そのスピリットの意識が私の肉体及び顕在意識としての意思や思考を動かしているのだと感じたり時にはスピリットの意識がダイレクトに感じられている状態ではありますが、それほどその結びつきはまだ強くありません。
それに対して、顕在意識の私としての意識はまだまだ存在していて、スピリットが実は私の肉体や顕在意識を動かしているということを理解しつつも、まだ、スピリットの意識と顕在意識としての私という認識はそれなりに分かれている状態です。
瞑想中、顕在意識としての私はスピリットとしての私こそが本当の自分だということを理解していて、スピリットを受け入れている状態です。
顕在意識はスピリットを受け入れていて特に恐怖とか抵抗とかはないのですが、存在としてまだまだ一体にはなっていないと感じます。
そこで、顕在意識の私としては、瞑想中、自分のスピリットに対して「委ねる」と言うことを意図します。
私の本体はスピリットの私ですから、顕在意識としての私は幻想でしかなくて、顕在意識の私はスピリットである本当の私に委ねます。
このようなことを意図して瞑想をします。
このスピリットのことをヨーガではプルシャと言ったりヴェーダンタではアートマンとか言ったりするのかなと思います。ヴェーダンタではアートマンは不可知で識別不能となっておりますのでヴェーダンタでもプルシャと言うのが正しいのかも知れませんけど、そのような、自らのスピリットあるいは魂としてのプルシャのようなものが本当の自分であり、それに対して委ねることで本来の自分が顕現してゆくのかなと思います。
本当の自分は時空に囚われることがなく意識そのものであり、スピリットです。しかし、顕在意識がこの世のまやかし(マーヤー)に惑わされて自分だと勘違いしていただけだったわけです。このことはヨーガや聖典でよく言われていることですけど、最近になって意識が体をダイレクトに動かしていると実感し始めたことで本当にそのことが真実でスピリットこそが本体だと実感するようになりました。
この時点ではまだスピリットと顕在意識がそれぞれ存在しているような状態で、日常生活を送るうちに顕在意識のみの状態に少しずつ戻ってきてしまうような感じではありますけど、こうして瞑想をすることでスピリットとしての自分を取り戻して、更には、スピリットに自分を「明け渡して」行くことができます。
この種の明け渡しとか委ねるとかいうお話は他人に対することではなくて自分自身に対する明け渡しですから危険はないわけです。
実際のところ、このような自己への明け渡しは自発的に起こるものですので、他人に説得されて行うようなものでは全くないわけです。
一応は、理屈で言えば他人ですら自分なのだから他人に委ねたり他人に明け渡すことも同じと言えばそうなのですけど、この種の理屈を逆手に取って他人を操って操作・依存の状態にしようとする人が大勢いますので、他人に対する明け渡しや他人に委ねる、みたいなことは基本的にしない方がいいと思いますね。そういう屁理屈をこねて他人から何かを奪おうとしている詐欺師は大勢いますからね。エネルギーだったり人だったり物だったりお金だったり何がしか理屈こねて自発的に他人から何かを引き出そうとしている人は大勢います。
実際にこの段階に来れば自己のスピリットへの信頼もできていますしスピリットが導くまま行動しますから危険性はないのですけど、まだ迷っている段階では「スピリットに委ねる」とか「スピリットに明け渡し」なんてものは起こりませんから、段階が全く違うのに同様の「委ねる」とか「明け渡し」なんてことを言ってきて同調圧力や行動の誘導みたいなことをしてくるのであれば注意して対処する必要があると思います。
実際にこの段階に来たら全くの迷いなくそれとわかって自己のスピリットの明け渡しが正しいとわかりますから、迷っているような状況であれば何か違うわけです。特に、この種のことは他人に説得されて行うものでは全くありませんので、他人の説明というのは有用ではありますけど、実際に自分が明け渡しを行うのはその段階に来てからですので、早急な明け渡しや早急な委ねは依存や操作の関係になるだけだと思います。
基本的には、自分の好きにすればいいと思っています。何をするのも自由。その自由があって初めてスピリットの成長があるわけです。自由を束縛しない状態が基本にあって、そこに自分のスピリットへの委ねや明け渡しが来るわけです。それは他人に強要されて行うようなものでは全くありませんし、他人と比べる必要も全くありませんし、自分がピンとこなければ別にする必要のないものです。
ただ、そこに行くためのステップというものがあって、その準備をしてからステップを進めば自然と自分がそれとわかってスピリットへの委ねが起こるものだと思います。その説明としては他人にしてもらうのはいいとは思いますけど実際に行うのは自分ですから、自分が自分のスピリットに対して委ねるのであって、他人に委ねるのではないのですよね。
自分のスピリットに対する委ねの後に他人に対する委ねもあるのかもしれないですしきっとあるのかなとは思いますけど順番としては自分のスピリットに対する委ねが先ですよね。その順番を無視して、他人も自分も同様なのだから他人に対する委ねが必要とか言って説得してくる怪しい詐欺師のような団体の妄言には付き合わない方がいいと思います。
自分でやっている分には私はこういうことにはほとんど無縁ですけど、一応、ここは誰が読むのかわからないので注意も書いておきました。
実際にこの段階に来たらきっと全くこういうことに悩まずにそれとわかりますので、悩むのなら明け渡しとか委ねるとか、そういうことはしない方がいいと思います。
元々そういう注意をしたかったわけではなくて、ここで言っているのは、最近の瞑想では自己のスピリットに委ねる、という感覚が強くなってきています、ということなわけです。
これは一見すると自分から何か他所の方向あるいは他所の何かに明け渡しているように見えてしまうかも知れませんけど、自分の軸としては中心に居座っていて、顕在意識の自分がいる中心軸に対して目の前に浮かんでいる自分自身のスピリットが前の方向から近づいてきているわけです。ですから、自分からスピリット(あるいは、いわゆる「全体」)という方向ではなく、スピリット(全体)から自分に向かうような状態になっていて、スピリットの側は意識として前の方向から肉体のある顕在意識の中心軸の側にただ近づいているだけでそこには明け渡しとかあまり関係なくてただ意識が少し前から体の方に近づいてきているだけで、「明け渡し」を行うのは顕在意識の方で、肉体のある顕在意識の側が前から近づいてきているスピリットを受け入れるために「明け渡し」が行われているわけです。
このことを時に比喩的に「明け渡しを行う」とか簡単にざっくり言ったりもするかもしれませんけど、簡単に言ってしまうことは多分に誤解が生じてしまう余地があるわけです。