ラントン(観、ヴィパッサナー)の宗派における違い

2021-06-02 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

止観の2つの段階はチベット語でシネー(止、シャマタ)とラントン(観、ヴィパッサナー)に分かれているわけですけれども、特にラントン(観、ヴィパッサナー)は流派によって解釈が異なっています。

ゾクチェンの「心の本性の部」におけるラントンは、覚醒の境地と思考の動きが一体になっているレヴェルを指している。この境地は<不動の境地(ミヨワ)>とも呼ばれる。この境地に至れば、どんな動きによっても妨げられなくなる。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」

これに対して、顕教と密教は立場を異にしています。

・顕教 → 静寂の境地(シネー、止)の後にラントン(観)が自動的に生じる。
・密教 → 悟りの一定の段階。シネーが空、ラントンが光明に対応して、両者の合一が密教の到達点。
・チベットのゾクチェン → 覚醒の境地と思考の動きが一体になっている不動の境地がラントン。
(同書より抜粋)

この他にも多様な解釈があって、テーラワーダ仏教(上座部仏教)などヴィパッサナー系の流派においてはシャマタ(止、シネー)は多少は必要だけれども本来的にはそれほど不要でヴィパッサナー(観、ラントン)があれば良い、としている流派もあります。

これに加えてサマーディが何なのかという定義のお話が加わってきて、サマーディが単なる集中(シャマタ、シネー)なのかそれとも観(ヴィパッサナー、ラントン)なのか、あるいは覚醒の境地である心の本性(リクパ)の状態のことを意味しているのかで解釈が違ってきます。

このように、シャマタ(止、シネー)がいいのかヴィパッサナー(観、ラントン)がいいのかというお話は瞑想をする人たちの間でいつも話題になって、流派及びその立場、あるいはその経験によって様々なお話があって、時に流派やそれぞれの人の間で対立してしまうこともあるようです。

最近思うのは、チベット系、特にゾクチェンに基づいた分類が一番スッキリするということです。

最近は各派におけるシャマタ(止、シネー)とヴィパッサナー(観、ラントン)の違いがはっきりとわかってきましたので、この辺りの理解がクリアになりました。