内なる意識とダイレクトに繋がることのみが本質

2021-06-04 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

聖典の知識とか意識の静寂さなどほとんどの瞑想の境地は外側で、内なる意識とダイレクトに繋がることこそが内側だと最近は思うようになりました。内なる意識はアートマン(真我)と呼ばれたりハイヤーセルフと呼ばれたりプルシャあるいは神意識などと呼ばれたりしますが言い方は重要ではなくその内なる意識とダイレクトに繋がることこそが次なる意識の段階へ進む鍵だと最近は確信するようになりました。

この、意識とダイレクトに繋がった状態では全てが「ありのまま」であると感じられます。

ゾクチェンの詩にあるように「ありのまま」を表現する方法などありはせず、全ては現れては消えてゆき、そのままで完全なのだから努力の病を捨て、サマーディの自然の状態に留まるだけで全ての顕現は現れては自然に消えてゆく繰り返しである、と。

多様な現象の本性は、不二だ。
ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。
あるがままのものを定義できる概念などありはしない。
にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。すべてよし。
一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、
あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。
「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」

すべての始まりから、
あらゆるものは
そのままで完全だということがわかれば、
何かを達成しようとする努力は、すべて放棄される。
あるがままの自然の状態にとどまっているだけで、
不二の三昧の境地が自然に生じつづける。

「虹と水晶(ナムカイ・ノルブ著)」

このことが今までは理性では理屈で理解できても、いまいち実感が持てないでいました。

しかしながら、ここにきて、少し実感が伴ってきたのが胸の奥にて夜明けを感じて創造・破壊・維持の意識が深まってきた頃からで、更に、この詩の内容が確実に正しいと確信したのはごく最近で意識が体をダイレクトに動かしていると実感してからのことです。

この、一見すると全く関係ないかのように見えるこれらの事柄は実は関連していて、自らの内側にある意識とダイレクトに繋がることで上記の詩の内容が理解できるようになるのです。

全ての始まりから、あらゆるものは、そのままで完全、というのは、全てが意識による創造物ということです。何物も意識によって意図されて作られたということがこの段階ではわかりますので、あらゆるものは、それがどのようなものであったとしてもそのままで完全であるということがわかります。これは変わってはいけないということではなく、むしろ逆で、いかなる形に変わろうとも、あるいは、全く形のようなものを取っていなくて原材料のようなものであってもそれすらもあらゆるものに含まれますのでそのままで完全であるということです。そのことが、自らの内なる意識に繋がることで理解できるわけです。

確かに、繋がったのはまだ自らの意識であって周囲の物の全てに繋がったわけではないと言えばそうですけど、自らの内なる意識と外側にある物体や他の人との本質が同じだと「わかります」ので、同じなのだという理解に基づいて、そのようなことがすんなりと理解できるわけです。自らを理解することで世界の成り立ちを理解するわけです。

この過程は聖典に書かれてあり、自らを理解することで世界を理解する、という聖典の記述は正しかったのだと今はわかります。

そして、何かを達成しようとする努力は、全て放棄される、ということもほぼ同様で、ありのままなのだから全ては意識のなすがまま。全てが良い、ということになります。

ここで、努力の放棄と言っているのは顕在意識の努力の放棄のことで、内なる意識の意図は残りますが、基本的には無駄な努力という観点からの努力は放棄されるわけです。

そして、あるがままの自然の状態に留まっているだけで不二の三昧の境地が自然に生じ続けるということもその通りで、あるがままの自然の状態と不二の境地というのは表裏一体であり、不二の境地で自らの内側に繋がっているからこそあるがままの自然の状態になっているとも言えて、それと同時に、文字通り、あるがままの自然の状態に留まるから不二の三昧の境地が続く、という面もあるわけです。

この詩はサマーディの境地の説明でもありますけど、サマーディというと色々な種類がありますけど、ここでの説明は、それなりに深い境地のサマーディのお話だと思います。