ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ(≒シャルドル)

2021-06-06 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

サマーディ分類で今の状態を何と言うのか確認してみました。

最初:視界がスローモーションで認識される
次:胸の奥の「創造・破壊・維持」の意識の目醒め
最近:意識が体をダイレクトに動かしていることの実感

これらの状態はそれぞれサマーディと一応は言っても良い状態かなとは思いますが、既存の言い方に当てはめようとすると苦労します。

一応は全てサマーディと呼んでも良い気が致しますが、本当にサマーディに相応しいのは最近の状態かなという気が致します。最初のは特に五感としての「対象」がありますのでサヴィカルパ・サマーディ(対象のあるサマーディ)です。2つ目と3つ目は個として感じられるアートマンとしての感覚が主で、その時に五感ももちろんありますけど、五感の奥にある意識がメインになっていますのでニルヴィカルパ・サマーディ(対象のないサマーディ)と呼んでいい気が致します。この時、ニルヴィカルパであっても五感は無くなりません。この辺り、五感がなくなるのかどうかで誤解があるようにも思います。

サマーディには色々種類があってヨーガ・スートラのサマーディ分類が有名かとは思いますが、個人的にはヴェーダンタにおける分類の方がしっくり来ます。ヴェーダンタでは基本的に対象があるサマーディと対象のないサマーディに分けられます。

・サヴィカルパ・サマーディ 対象のあるサマーディ
・ニルヴィカルパ・サマーディ 対象のないサマーディ

これらは、文字通り定義を読むと「対象があるかないか」ということですけど、それよりは「五感を主たる基礎としているのか=普通の心を主たる基礎としているのか」あるいは「第二の心=宇宙意識=心の本性リクパを主たる基礎としているのか」と言うお話なのかなと思います。それはゼロイチではなくて割合によって実際の状態はそれぞれ異なるように思います。「対象」と言う観点で言えば心の本性リクパがそれなりに動いている状態であっても五感及び普通の心は別の階層にて存在し続けていますので、最初こそ静寂の境地を基礎としていますのでそのように「対象」を基礎として分類することも可能ではありますけど、そのうち普通の心と心の本性リクパが同時並行で動くようになりますので、「対象」を基礎としてしまうと混乱が生じてしまいます。ですから、「対象」として理解しようとすると理解が難しくなりますので、それよりは、普通の心を主たる基礎としているのか心の本性リクパを主たる基礎としているのか、という点で分けるのが良いと思います。サマーディですから多少は心の本性リクパが働いていなければサマーディにはなり得ないので、まだ心の本性リクパが弱い状態では普通の心が主になっていますのでそれがサヴィカルパ・サマーディ(有想三昧、分別三昧)と呼ばれる、と言うことだと思います。

その割合や特徴としている資質によって各種のサマーディの種類ができていてそれぞれ違った名前で呼ばれている、と言うことだと思いますが、大きく分けると上記の2つに分けられる、と言うことだと思います。

このヴェーダンタの分類を基礎として、ラマナ・マハリシは以下のように3分類にサマーディを定義しています。

・サヴィカルパ・サマーディ 努力によって保たれているサマーディ
・ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ 真我の一時的な自覚と、一時的だが努力を要しない自己覚醒
・サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ 原初の、純粋な、自然な状態のなかに努力を要せずとどまっていること

「あるがままに(ラマナ・マハルシの教え)」

これはよく理解できて、チベット仏教のゾクチェンに基づくチェルドル・シャルドル・ランドルに相当するような気が致します。

・サヴィカルパ・サマーディ (≒ チェルドル)→ 視界のスローモーション
・ケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ (≒ シャルドル)→ 創造・破壊・維持の意識による体をダイレクトに動かしていることの実感
・サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディ (≒ ランドル) → 私はまだ

真我の自覚は、最初の段階である創造・破壊・維持の意識から体をダイレクトに動かしていることの実感までは半年くらい期間が空いておりますが、最初の段階の言い方として言葉では一応「創造・破壊・維持の意識」と言うように「意識」と言う言葉を使ってはいても「意図」は最初は感じられず、ただ、「創造・破壊・維持」の意識だけを感じておりました。それが意識だということは直感では分かりましたがそこに「意図」は感じられませんでした。最初は、後で感じるような「体をダイレクトに動かしているという感覚」と言うような「意図」は特になく、ただ、世界を創造して破壊してそして維持をしている根源としてハートの奥底に感じておりました。

その後、体をダイレクトに動かしているという感覚が出てきて、そのような「意図」を実感したことでようやく「ああ、これは真我(アートマン)だったのか」と気付いたわけです。それまでは、単に「創造・破壊・維持の意識」というだけで真我(アートマン)だとは思いませんでした。そうかもしれない、というくらいで確証はありませんでしたが、「意図」が出てきてそれがアートマンだと自覚しました。

ですので、今の段階はケヴァラ・ニルヴィカルパ・サマーディ(≒シャルドル)なのかなと思います。