まだ完全に自動的に雑念が即時に溶解するというわけではなく、多少、時々、気付きの再確認が必要の様です。
気付きを再確認するだけで、自然に雑念が自動的に消えてゆきます。
全ては空(くう)であり、形あるものとして雑念が生まれ、やがて、また空に戻ってゆきます。それは般若心経の空即是色のことで、形のない空(くう)から形ある色が生まれて、そして、また空へと戻ってゆくわけです。
この世の全ては夢まぼろしのものだとはよく言われますが、この段階になると、そのことがありありと感じることができます。
ただ、それはほぼ自動的なものになってはいるものの、完全に気付きが完璧になったというわけではないようで、今の段階では、時々、再確認のための気付きを入れる必要があります。ですけど、その程度しかする必要がなくて、基本的には割と自動的に雑念は形のない空に戻ってゆきます。
これは、雑念を流すということもできますけど、実際には、その雑念をしっかりと見ています。ですから、雑念を見ないようにするということではなく、逆で、いわゆる心の本性(リクパ)の働きにより雑念をありありと、ありのままに見ることによって自然にその見つめる力、光と言っても良いですけど、その観察する力によって雑念が自己崩壊してゆくわけです。このことを、自己解脱、とか言ったりします。雑念が崩壊して自己解脱するわけです。
これを法性(ほっしょう)とか仏性(ぶっしょう)とか言ったりすることもできると思います。
瞑想のやり方で、時々、「雑念を追いかけなければ自然に消えてゆきます」みたいな説明を聞くことがありますけど、そのようにできるのはこの自己解脱の力が多少なりともある場合のみで、そうでない場合はなかなか消えてゆかなくて雑念に翻弄されてしまうことになります。
その力は、強さによって何段階かに分かれます。
・ほとんどない状態
・チェルドル(ほんの少しある状態。努力して自己解脱する段階)
・シャルドル(中間的な状態。自動的な少しの時間をかける自己解脱)
・ランドル(瞬時の自己解脱)
思うに、チェルドルの様に時間をかけて雑念を自己解脱する段階では、まだ真理を見出したとは言えないか、あるいは、一瞥の状態にあると思います。
私の最近の状態はおそらくシャルドル相当ですけど、ここにきて、ようやく聖典の記述が本当であることが体感できています。普通の日常生活を送る分にはこのくらいで十分すぎるくらい十分ですね。
シャルドルの場合、とくに注意力をはたらかせる必要はないし、努力もほとんど必要ではない。しかし、まだ、リクパの境地から離れたら執着に陥ってしまうということを、そのたびにしっかり思い出す必要がある。その意味では、完全な自己解脱とは言えない。真実の自己解脱(ランドル)は、この能力が完全に成長した時に生じる。「チベット密教の瞑想法(ナムカイ・ノルブ著)」
この記述は本当にその通りだと特に最近は思うわけですが、ただ、それと同時に、ごく最近は、このような分類とか説明とかどうでもよくなってきました。
「ただ、ありのままでいるだけで自己解脱する」
このくらいのシンプルなお話なのだ、ということがわかってきました。