スピリチュアルではよく「手放しましょう」みたいなことが言われていますけど、それは物事の半分しか説明されていなくて、それと同時に意識の覚醒がなければ手放したところで何も起きないわけです。何も起きないならまだマシですけど、手放しをすることで顕在意識が勘違いしてしまって既に手放しているかのように錯覚してしまうことがあります。
このような錯覚はスピリチュアルの道において大敵で、一旦その状態になってしまうと理屈と記憶においてはそのことが一応は理解されていますから「わかっています」と心が思ってしまうわけです。この場合、「既に私は手放せています」と思ってしまうわけです。
これはとてつもない落とし穴で、手放しているつもりが全然手放せていないわけですね。
でも、そう思い込んでいる人に何を言っても無駄に終わることが多くて、自分が気づかないといけないことですので、周囲から気づかせようという努力が無駄になってしまうわけです。
こうして、往々にして、スピリチュアルの幻影にハマって、しばらくすると「目が覚めた」とか言ってスピリチュアルの馬鹿馬鹿しさに幻滅する人が一定数いるのですけど、それはとてももったいないことだと思います。
この種の「手放し」は顕在意識の手放しのことで、それはそれ単体で存在しているわけではなくて、意識の覚醒をその基礎にしています。
意識の覚醒というのは、言い換えれば心の本性であるリクパと言う覚醒の働きのことを意味していて、割と普通のぼんやりとした人生あるいは煩悩に支配されている人生を送っている人の場合、このリクパは動いていないわけです。
手放しをすると顕在意識が働かなくなりますから、それと同時に、このリクパの覚醒がなければよって立つところがなくなってしまいます。リクパの覚醒がない状態でただ手放しをするとただのぼんやりとした状態になってしまいます。
それとわかっていさえすれば手放しだけしてリクパの覚醒を待つと言う方法もあるのですけど、リクパの覚醒はなかなか起きませんし、リクパの経験がなければ何がリクパかもわからないですので、これがリクパかな、あれがリクパかな、もうリクパなのかな、と、迷ってしまったり、迷うだけならいいですけど、色々と考えた結果、もうリクパがあると勘違いしてしまうこともあります。
基本的には、リクパの覚醒が起きていない以上は、自分がリクパの覚醒状態にあるのかどうかわからないですよね。ですけど、顕在意識というのは理屈をあれこれとこねくり回して、自分が既に達成できているかのように自分を納得させることがよくあるのです。それは特に瞑想の初期においてよく起こります。この種の自己欺瞞がスピリチュアルの落とし穴として存在していて、それにハマると、上に書いたようにしばらくしてふと自分が置かれた状況に気がついて「目が覚めた」とか言ってスピリチュアルをやめてしまったりするわけです。勿体無いですよね。
手放すと言うのは顕在意識のお話と、リクパの覚醒という2つの意味があるわけです。
顕在意識を働かせるのをやめましょうという意味における手放しと、顕在意識が主になって働いている状態からリクパの覚醒をすることでリクパが主になって働いている状態に遷移しましょうという意味における手放しがあるわけです。
実際のところ、リクパの覚醒という意味においてはどちらも同じことを意味しているわけですけれども、顕在意識の手放しだけでは半分でしかないわけです。それをしたところで、リクパの覚醒がなければただ単に顕在意識が動かなくなったというだけのことになってしまいます。
顕在意識というのは「私(アートマン)」の道具であり、本質においては顕在意識を動かすとか動かさないだとかいうことは関係がないのですけど、スピリチュアルな精神修行の一過程においてリクパの覚醒をもたらすために一時的に顕在意識を停止させるあるいは一時的にゆっくりにさせるという修行方法があるということです。
ですから、スピリチュアル的な「手放し」というのもそのコンテキストにおいて理解されるべきだと思っていて、最終的な状態が「手放し」ではないわけです。この辺りにも誤解があるように思います。
例えば、スピリチュアルでは嫌なものや不快なものを「手放しましょう」みたいなことが言われますけど、わざわざ手放しをしなくてはならないのは最初だけで、手放しが起きるのは一時的なお話で、最終的にはそれは避ける必要もなく勝手に自分の周囲から消えてゆくわけです。消える、というと語弊があるかもしれませんけど、顕現としては変わらなくて、ただ、自分の認識として不快に思わなくなる、あるいは、不快に多少思ったとしてもすぐに消えてゆくようになります。
一方、わざわざ手放しを行わなくてはならない段階がいわゆる「キラキラ系」のスピリチュアルで、何か不快なことを避けるために「手放し」をするだとか、否定的なものを遠ざけるために「手放し」するみたいなことを言っていますけど、そうして自分が避けようとしているということは、まだそれに影響されているレベルでしかないわけです。
自分の周囲というものは全て自分の中が周囲に顕現したものですから、手放しをする必要があるということは顕在意識にまだ深く問題を抱えているということです。
実際には、その顕在意識の静まりだけでなくて、心の本性であるリクパとしての覚醒が現れて来さえすれば、そのような周囲への顕現は現れてはやがて消えてゆく一時的なものだと悟ることができます。
顕現というものはエネルギーの現れですので無限に続くことを理解して、顕現が現れてきたとしても観察しさえすればすぐに自然に消える(自己解脱)ということを理解するだけでなく実際に認識の面においてもすぐに自然に消えることを体感するようになり、顕現に悩まされることもなくなっていきます。
顕現がなくなることはない、ということを理解することは重要で、「手放し」という意味の中には「顕現がなくなる状態が良い状態」というニュアンスが多少は含まれていているような気がいたしますが、実際には顕現はなくなることがありませんので、自分の現れとして周囲の顕現は無限に続いてゆきます。それはエネルギーの現れですから、止まることがないわけです。
手放し、というのは、意識的に行うことではなくて、自然に起こることだ、ということもできます。それは、顕在意識が意識的に行うことではなくて、リクパの動きにより自然に起こることだ、ということです。それは心の本性としてのリクパの動きを基礎としていて、ざっくり言ってしまえば覚醒ということでもあり、覚醒があれば手放しも自然に起こる、ということでもあります。