悟ると何か特別な人になるのではなくて、全く普通な人として生きるようになるのかな、と今は思います。
特にシャルドルで静寂の境地への依存から離れたことにより、それまでは、瞑想をしてから静寂の平穏の境地という特別な状態にすることで心の平安と特別な感覚を味わっていました。
しかし、シャルドル以降は、その平穏の境地が日常生活とどんどんと融合して行っているように思います。
日常生活が瞑想状態そのものになり、日や時間によって程度の違いこそあれ、割と、平穏な状態が日常生活にまで広がり、視野が広がって微細に物事を観察できるようになりました。
シャルドル以前も度々そのようなことがあり、それが割と長い時間続くこともあったように思いますが、「努力なし」という観点から言えば、シャルドル以降こそが日常生活の瞑想状態の始まりとして適切であるように今なら思います。
努力なし、というのは完全にそれが不要というわけではなく、時折、そのことに気付きを入れてあげる必要がまだあります。
書物を読むと、次の段階であるランドルになりますとその気付きを入れることすら不要だということではありますけど、シャルドルの段階では努力は不要でも時折気付きを入れてあげる必要があることを実感しています。これは書物で読んだ知識であることはそれはそうなのですが、それよりも、実践として、そのように思うということです。書物で自分状態を確かめられたという点もありますし、書物でやり方を教えてもらった、という両方の側面があります。
そのように、日常生活で単純な気付きを入れるだけで良い段階になると、どんどんと日常生活が瞑想と溶け合わさってゆき、その状態はもはや「特別」なものではなくなります。
ここにきて、日常生活の「普通」の状態こそが素晴らしい生き方だと実感できるようになったわけです。
そもそも、その普通の日常生活がなかなかできないから皆が苦しんでいるわけで、ここが一つの区切りであり、ランドルとまでは行かないまでもシャルドルであればこの「普通」の生活ができるようになったのかなと思います。
「セワ」は、チベット語で「まぜる」ことを意味している。自分の三昧の境地を、日常生活のすべての行動に溶け合わせていくのである。ゾクチェンにおいては、何か変えたりする必要などないし、特別な服を身につける必要もない。外見から見て、ゾクチェンの修行中だと思われるようなものは、何一つないのである。本当に修行しているのかどうか、知る方法は何もない。ゾクチェンの修行は、外見とまったく無関係なのである。相対的な条件の中にある全てを修行に取りいれ、両者を一つのものにするのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
これは最初、チェルドルくらいの弱いサマーディの力しかない時は努力が必要でも、シャルドルにきて努力がほとんど不要になり、このことが現実になってきたように思います。今まで、このことがいまいちピンとこないまま、そうなんだろうな、と漠然と思っていたのが、ここにきて、確かにこの通りだ、と思うようになりました。
私は特別にゾクチェンの流派に属しているわけではないですけど、ヨーガ行者も似たようなことを言っていますし、この内容は真実であるように思います。
ただし注意しておきたいのは、これは、何もしなくても最初から悟っているから何もしなくてもいい、と言うことではありません。それは道元が活躍した時代にかつての天台宗の教えとして「人は元々悟っているのだから何もしなくてもいい」みたいな思想が誤解されて広まったようなもので、それを道元は否定して修行が悟りのために絶対的に必要だと説いたわけですけど、最終的な状態が普通の人生だとしても、その普通を生きるためには修行が絶対的に必要になってくるわけです。最初から悟っている人もいないわけでもないですけど基本は修行が必要と思います。