金剛定は詳しく記されている書物が少ないのですが、油井真砂さんの「信心と坐禪」が参考になります。
金剛定に至る直前で、心を滅してしまう滅尽定(めつじんじょう)に落ち込まないようにとの注意も同書には述べられていますが、おそらくはこの滅尽定はいわゆる心の本性であるリクパの覚醒意識が現れていない状態なのかなと思います。仏教では割と滅尽定のことを悪者扱いしているような感じではありますけど、見たところ、リクパが現れていない時が滅尽定で、リクパが現れると金剛定ということかなと思います。ですから、それほど悪者にすることもないのかなという気も致しますが、どうでしょうか。
感覚的な私の理解では、非想非非想処の後にリクパがまだなければ滅尽定となり、リクパが現れると金剛定、ということだと思います。ですから、滅尽定を飛ばして金剛定になることもあり得るわけです。私の場合、おそらくは滅尽定はほとんどなかったような気が致しますけど、どうでしょうかね。言いようによっては「静寂の境地」が滅尽定と言えなくもないですけど、私の場合、雑念が静寂になっただけで意識はありましたのでその時も多少はリクパの意識が働いていましたので滅尽定というわけではないような気が致します。滅尽定はそれほど悪者にすることもないと思うのですけどね。どうでしょうか。
個人的には、一時的にそのような「無」とも言える静寂に落ち込むことはあっても、胸の奥から突き動かさされるような鼓動によって「眠ってはいけない」と強制的に起こされてきましたので、滅尽定とかあるいは無想定といったものも含めて、そう心配することはない気が致します。意識でいくら眠ろうと思っても強制的に起こされる力にはあがらうことはできませんし、起きて成長してしまった方が寝て停滞するより遥かに楽なのが現実です。
同書によればこの金剛定は一応は覚醒の意識ではあるのですが、まだ、僅かな煩悩が薄雲のようにかかっている状態とのことです。これは、まさに私の状態と一致します。
「信行最後の煩惱」といふものが、またそこへふうつと薄雲のやうにかゝつて來るのである。夫れは、例へば、潔癖の人が潔に著するといふやうに、(中略)清濁一如の妙機が得られて居ないから、夫れで、つい空に著するといふことになるのである。即ち、無常でなければならない空が、何んとしても恒常の空のやうに思はれるといふ煩惱が、ふつとそこへ涌いて來ることになるのである。これが、空によつて生ずる「空病」としての煩惱である。「信心と坐禪(油井真砂 著)」
このあたりが私の今の課題ですね。とは言いましても、課題というほどの課題でもないですけど。これが禅で言う「空病」だと言われれば、確かにそうなのかもしれない、という気も致します。ただ、この段階はわざわざ「病」と言うほどのものでもない気も致しますが。昔の言葉のニュアンスはもっと軽い意味だったのかもしれませんね。ただの専門用語と思えばそんなものかなという気も致します。
ここで大切なのは、チベット式に言えば日常生活と「まぜる(セワ)ということかなと思います。日常生活の清濁を乗り越えてサマーディの境地と混ぜ合わせて行くことがこの段階を突破する鍵のような気がしております。
このあたりで大切なことはチベット系か禅系の同書が参考になります。
往々にして、このあたりにくると自分が既に悟っているかのような錯覚も時々生じてきたりはするのですけど、これらの本を読むとまだまだだということがよくわかります。
金剛定に至るまでの階梯についても記録しておきたいと思いますが、私の状態を禅の階梯に当てはめてみると微妙で、解釈が2通りできると思います。
創造・破壊・維持の意識が現れる以前は無所有処で、出た後は非想非非想処で、意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感を得たことにより非想非非想処から金剛定に至ったという解釈と、創造・破壊・維持の意識が現れる以前は無所有処か非想非非想処で、創造・破壊・維持の意識が出てきて意識(アートマン)が体をダイレクトに動かしていると実感を得たことにより非想非非想処から金剛定という割と最後の段階に入ってきた、という解釈がそれぞれあります。
このあたりはとても微妙で、これらは禅においては順番に並んではいますが普通の意識のお話と心の本性のリクパの覚醒のお話は割と並行していて、まだ普通の意識がそれほど成長していなくてもリクパの覚醒がある場合があります。
非想非非想処までは無色界のお話ですから、普通の心の平穏さが非想非非想処と言えると思います。一方、金剛定になりますと心の本性のリクパの覚醒のお話だと解釈できます。リクパの覚醒は実のところ普通の心とは割と独立して存在していますから、普通の心が非想非非想処に達しなくても心の本性のリクパの覚醒があれば金剛定に一応はなったように見えるわけです。この辺りに混乱があるように思います。
非想非非想処がいわゆる「静寂の境地だったのかなと思います。静寂の境地に最初に至るところが無所有処で、静寂の境地が安定するのが非想非非想処という解釈もできます。おそらくはそんな感じだったのかなと思います。
非想非非想処までは普通の意識のお話で、心の本性のリクパの覚醒が出てくるのが金剛定の段階だと解釈できます。ですから、仏教の、例えばテーラワーダ仏教においては「非想非非想処などの無色界の禅定は必ずしも習得する必要がなく、それがなくても悟ることができる」、とされているのだと思います。その意味としては、普通の心の平穏さをそこまで突き詰めなくても心の本性のリクパの覚醒はなされる、ということだと解釈できます。
チベット系では普通の心と心の本性リクパが分けられているのですけど、他の流派においては一緒にしているので混乱があるのかなと思うのです。
私の見たところ、非想非非想処から金剛定に進むのがやりやすい気も致しますし、非想非非想処がなくてリクパの覚醒を先にして金剛定に行ってしまうと普通の心の制御が完全ではありませんので、何かやり残したような感じになってしまわないかと思うのですけど、どうでしょうかね。世間のスピリチュアルな修行においてリクパの覚醒だけを目的としてしまうと非想非非想処の静寂の境地がなくて覚醒だけが先行してしまうので、何か、とても不思議な感じの、不安定だけれども覚醒している、という、ちょっと変わったスピリチュアルになってしまうような気も致します。