創造・破壊・維持の意識は必ず公の意識であるわけですが、最初は胸の奥から始まって、やがては喉の下から胸および下腹部に至るまで、おおよそ身体の3分の1くらいがその意識で満たされるようになりました。
頭までも一旦は広がったように思いますが、安定して存在しているのは少し前までは喉のヴィシュッダより下だったように思います。
その、満たされた部分、胸や下腹部を意識の手のようなもので触ってみると、随分と軽やかな感じを受けます。
他の部分、胸よりも少し上を触るとちょっとした抵抗があって、砂ほどではないのですが、柔らかいパウダーのような感覚、ただし粉ではなくて単なる抵抗、粉というよりは液体に近くて多少は粘着性のある、ゼリーほどではないにせよさらっとしたゼリーのようなオーラがその他の部分です。
それに対して、今回の「創造・破壊・維持の公の意識」で満たされている部分は、もっと「さらっと」しています。その、さらっとしている部分が身体に少しずつ浸透しつつあります。
少しの間はそんな感じだったのですが、その後、瞑想をするうちに更にその範囲が広がり、じわじわと頭の中にまで広がってゆくのを感じます。
先日、下腹部や一部は頭にまで広がった時のようにブルブルっと震えたり自我が抵抗したりという感じはありません。ただ単に広がってゆきます。
この、体中の感覚を言葉で簡素に表すのであれば、「空」と表現できるのかもしれません。禅などで言われている空と同じかどうかはよくわからないですし流派によって違う気も致しますが、この「さらっとしている感覚」は「無」ではありませんし、であれば「空」と言っても良い気が致します。どこかで「中空の竹」という言葉を聞いたことがありますが、身体の中を空の入った竹のようにして行うサマーディの種類があったような気が致します。
例えば「悟りに至る十牛図瞑想法( 小山 一夫 著)」を確認してみましたが、それっぽいような、そうではないような、微妙な感じです。
同書では心身脱落の後に中空の竹が来る、となっているのですが私には心身脱落というのはよく分からなくて、この「創造・破壊・維持の公の意識」がやってくる前はエネルギーに満ちて、その更に前の段階で平穏な静寂の意識に達した時に「遠く」まで澄み渡るような、涅槃を垣間見たような状態になったのですが、その時であれば心身脱落と言っても良かったかもしれませんけど、今はよく分からないですね。とは言いましても普段の瞑想で身体はあまり意識しておりませんので、最初から心身脱落状態だったと言えばそうかもしれません。であれば意識していなかっただけで既に達成されていたということなのかもしれませんが。
中空の竹は、同書によれば「管」であって、そこにサマーディのエネルギーを注ぎ込む、ということになっているようですけど、確かに、師匠がいて教えをこうのであれば弟子はそのように中空の竹を作ってその中に師匠のエネルギーを注ぎ込んでもらうというのもあるのかもしれませんね。一方で、同書にはいくつかの引用文があって、そちらは聖者が中空の竹に近い心境を語っていて、それは確かに、私の状態に似ているといえば似ている気も致します。
中空の竹というか、周囲が既存の昔ながらのオーラで、中心に上記のような「さらっとした気」が満たされていって増えている、という感じですので、ちょっと縦長ではありますけど竹というほど長くもありませんので、別物かもしれませんけど。
最初、この「創造・破壊・維持の公の意識」が胸の奥に出てきた頃は「ある」として認識していましたけど、広がった後は「ない」ものとして認識するようになりましたね。この変化は面白いです。たぶん質としては変わっていないとは思いますけど。周囲とは異なる質のものがあると「ある」として認識されたものの、それが広がってみると質としては「さらっとした気」ですので「ない」と認識されているような気が致します。それは完全に何もないわけではないので「無」ではなく、であれば「空」と言えなくもないですし、人によっては「虚」と言うかもしれません。感覚としてはそのような「さらっとした気」が体中に充満してきて、それは「創造・破壊・維持の公の意識」であるわけです。最初こそその属性のうちの1つである「破壊」あるいは「自我がなくなる」感覚に若干の恐怖と震えを感じたりもしましたけど、今は、微妙な波動の違いで「振動」を少しブルっと時々感じるくらいで、基本的にはその新しい感覚を受け入れています。
この創造・破壊・維持は3つの属性ではありますけど1つの波動というかオーラというか存在というか意識のようなものの別々の面を表現しているだけで、あくまでも存在としては1つのように思います。それが、胸から始まって体全体を覆うようになってきています。