身体を意識の手のようなもので探ってみても、スカスカしていて反応がありません。胸のあたり、あるいはお腹のあたり、あるいは頭のあたりを意識の手で触ってみても、するりと通り抜けて「抵抗」がありません。以前は身体のあたりには多少の抵抗があってオーラがそこにあるという実感がありました。
今は、そのようなオーラが「ある」という抵抗の感覚がなくて、とても細かい粒子でできていてそこに何かが「あるような気がする」のだけれども実際に「手」でそれを確かめてみると「何もないくらいスカスカしている」というように、あるように思えるけれどもオーラの感覚としては何もないような、そんな感じになっています。
そのように、あるようでいて、ないようでいる、不思議な意識の身体になっています。
もちろん肉体としては存在していますので、肉体がスカスカになったわけではありません。
これは、最初は胸から始まって、やがて頭にまでじわじわと浸透して広がっていきました。
この感覚を、最近読んでいる油井真砂さんの著書「信心と座禅」と見比べていきます。
・空無辺処(くうむへんしょ)
・識無辺処(しきむへんしょ)
・無所有処(むしょうしょ)→これ
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)
諸相を觀ずる最後の依所(えしょ)として識心が空じられてはじめてこの定境(無所有処)が開けたのだから、当然ここには一点識心の影をも留めない筈だのに、なお、それとなく感じられて来るそれは微かな一つの依所が感じられて、そこへ、宇宙創成の劫初(ごうしょ、この世の初め)の氣である陰陽両気相克の逆萬字相が觀じられて来るのである。「信心と座禅(油井真砂著)」
私の感覚に当てはめてみると、
このように、創造・破壊・維持の意識が広がっていって「我(という心)」が消えて「公」の意識で満たされた筈なのに、それでも尚、どこか「認識する」という現象は相も変わらず続いていて、そこへ、ムーラダーラから上ってくる地のエネルギーが感じられます。天のエネルギーを降ろすこともできます。一方、創造・破壊・維持の公の意識は私の肉体の胸、下半身、頭にまで及んで存在しています。
その、創造・破壊・維持の意識は同書では「空」と表現しているように思います。そうであれば、もともと体の大部分を占めていた「心」という「私」の意識が同書の言葉で言うところの「空じられて」、そしてこの心境、創造・破壊・維持の公の意識が開けた、と解釈することができます。であれば、私の状態とも近いように思います。
この状態になって「私」が消え去った筈なのにどこか「それとなく感じられてくる微かなもの」があって、それは、気の流れである、ということであればここもまた一致しているように思います。
寂寂とした空の気の中へふっと陽の気が立って來ると、そこへたちまち陰の気がからまつて来るという、ここのこつ然緣起の如相といふものが、これが即ち「法性緣起」の実相になるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」
私の体にある創造・破壊・維持の意識が「空」だとすれば、そこに「陽の気」、これはムーラダーラからの地のエネルギーだとすると、それは割と「なにもない所」から急に出てきたかのように思えて実はその奥底には「何か、その根源」なるものがあると感じられていて、その「根源」から「陽の気」が出てきます。一方、特にムーラダーラの場所でなくても同様の「陽の気」といいますか「地のエネルギー」と言いますか、似たようなエネルギーがムーラダーラ以外からもふと急に湧き出てきています。例えば鼻頭に集中するとその周辺から不意にエネルギーが「現れて」、鼻頭の周辺、眉間、頭のあたりにそのエネルギーが集まってエネルギーが凝縮した感じになります。
そのように、ムーラダーラの奥底にある「根源」のみならず、そこらからエネルギーが不意に顕現しますので、それら共通の基盤を「空」と言うのであれば上記の表記はまさにそれで、そこらの空間から不意にエネルギーが顕現して、それがまた不意に消えてゆく、ということは瞑想中に良く感じられます。そこに、記述のような「陰の気」というのはあるようでいてないようでいて、微妙なところですけど、確かに、「地のエネルギー」が消え去る時は風に吹かれて煙が拡散するかのように元の「根源」へと返ってゆきますので、その「風」のようなものを「陰の気」といえばそうなのかもしれないですけど、実際のところ、単に拡散しているだけで「陰の気」というのはない気もするのですけど、どうでしょうかね。あるように見える、というのならそうなのかもしれないですけど、実態はない気が致しますが。
少し前に瞑想中で感じたことを基に解釈した般若心経の理解にも似たようなところがありましたね。その時は今ほどはっきりとは感じていませんでしたが、方向性は似ていると言えます。
同書によればここで一旦は「我」という感覚がほとんど完全とも言えるほどなくなるものの、まだ、微細な感覚は残ると言います。
私も、だいぶ「我」という感覚はなくなったように思いますが、存在としての私が消え去るわけではないですし、人間としての「個」は継続しています。まあ、そんなものなのかな、とも思います。
同書によればこの心境をもって無所有処が完成し、非想非非想処に移ったとのことです。
・空無辺処(くうむへんしょ)
・識無辺処(しきむへんしょ)
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)→ ここへ
この境地は、法性としての宇宙の気の凝りが緣起して来る「種」の世界であるが故に、無から有へ転じて行く空の妙融相が如實に觀じられる境地である。「信心と座禅(油井真砂著)」
ということですから、上記のように「空」から「陽」が現れてきてそれが消えてゆくことを感じる境地ということでしょう。
ただ、ここだけを読むとその前段階の前提条件が特に書いてありませんので、それより遥か前の段階でもこの段階に至ったかのように思えてしまうことがあるようにも思います。前段階から一歩一歩と踏まえてきて、そしてこの段階へ至るのならばそういうことなのかな、と思います。
ここまで來れば、「闇の夜に鳴かぬ烏の声きけば生れぬ先の父ぞ恋しき」といふ道歌の妙味が如々の事実として味得できるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」
そうは言いましてもこの歌の解釈は難しいです。
■闇の夜に → 空の境地のことを表しているのでしょうか。「創造・破壊・維持の公の意識」あるいは「根源」が存在している、陽の気が発起してくる土台となる空間を表しているように思います。
■鳴かぬ烏の声きけば → スピリチュアルにおいては「声」とは音でありエネルギーであり、根源のエネルギーであり、天地創造の最初にあったものは音であり、この宇宙全ては音でできているとさえ言われます。ということは、鳴かぬ鳥というのは、その一方で鳴く鳥というのも存在しており、スピリチュアルにおいて鳴く鳥といのはいわゆるナーダ音のことであり、ナーダ音は物理的な音ではない超感覚的な音ですけど時に「ウズイスの声」とか色々と鳥や太鼓の音として表現されていて、ここでは鳥ですけど、それはあくまでも数多くあるナーダ音のうち代表劇なものとして「鳥」を出して「鳴かぬ鳥」と言うことで「ナーダ音のことではない」と言っているのであり、ナーダ音ではない音であれば、もっと深い、感じる音、感じるエネルギーのことを言っているのだと思われます。ですので、意味合いとしては「深いエネルギーを感じれば」ということだと思います。
ナーダ音も「鳴らぬ音」と表現される時があって、その意味合いでこれはナーダ音のことだと解釈することもできますけど、その場合は他の言葉との整合性がいまいちで、「闇の夜にナーダ音を聞くと生れぬ先の父ぞ恋しき」というと非想非非想処よりはるか前の段階の詩になってしまい、浅い意味合いになってしまいますし、ナーダ音を聞いたことで「生れぬ先の父ぞ恋しき」というのは非想非非想処の空とか陽とかの感覚とは一致しません。ナーダ音はもっと前の段階ですから、ここで言うところは「ナーダ音のことではない」と解釈するのが適切に思います。
実際に耳で音のように感知されるナーダ音ではなく、もっと根源の、「パラー」とも呼ばれるような根源の音のことをここでは「鳴かぬ烏の声」と表現しているように思います。
■生れぬ先の父ぞ恋しき → 実際に「陽の気」が出てくる前であっても顕現前の存在が「そこ」に確かに存在しています。それは「闇の夜に」と比喩されるようなベースとなる空間であり、その空間に「空」と言うのかあるいは「創造・破壊・維持の公の意識」と呼ぶのかはたまた「根源」と呼ぶのか、そのような意識が広がっています。その意識はまだ顕現前であったとしても、それでも、顕現後の様相と言いますかエネルギー的な本質を内に秘めているものなのです。そして、実際に顕現前のそのベースとなる空間を眺めて、まだ顕現する前であってもそこにエネルギーを感じる、ということを言っているのかなと思います。「父」というのは「親」であれば、その親であるベースの空間から「子」として実際に顕現した現象あるいは具体的なエネルギーが出てくるとすれば顕現前の空間としてのエネルギーの状態を「父」と表現するのは正しく、更には、そこはエネルギーで満ちていますし、そのように創造の素晴らしさを観察するのであればそれは「恋しき」と表現するのも相応しいのかな、とも思います。
道元の歌は難しいですけど、こうして解釈してみるとさすが深いことを言っていると思わされます。
この定境を説いて、「前の識處は有想であり、無所有處は無想であつたが、こゝに至つて前の有想を捨離するが故に非想といひ、無想を捨離するが故に非々想といふのである。修行者はここにおいて痴の如く醉の如く眠の如く暗の如くであつて、いささかの愛楽すべきなく、泯然(みんねん)・寂絶(じゃくぜつ)・清淨(しょうじょう)・無為(むい)である。故に非想非々想處定と名づける」というのである。「信心と座禅(油井真砂著)」
・空無辺処(くうむへんしょ)→ [link:/2020/2197/ 奥深い意識が出てきた段階]]
・識無辺処(しきむへんしょ)→ 有想。宇宙の広大さが感じられた境地。
・無所有処(むしょうしょ)→ 無想。「わたし」という心が滅せられる境地。「公」が広がる境地。
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)→ 有想がない故に非想、無想がない故に非々想。
識無辺処と無所有処の両方を達した境地が非想非非想処であって、であれば、今は非想非非想処の状態とのようにも思います。
識無辺処では宇宙が感じられていたがそれは当たり前のものになるにつれて感じられなくなってしまった。よって非想。無所有処で「わたし」という心が滅せられて「公」が広がったが、やがてそれが広がるにつれて当たり前の状態になり、その過渡期に感じたものはもはや感じられなくなった。よって非々想。 有想が宇宙の広大さを感じている「私」という意識で、無想が公の意識、私という意識が滅せられたかのような意識で、そのどちらもあるような、ないような、片方づつ見てみても両方見てみてもどちらもあるようなないような状態、それが非想非非想処なのかなと思います。
書物によっては非想非非想処のことを想念があるようなないような、という、心の状態のことだと説明していたような気が致しますが、この油井真砂さんの説明はまるで別物ですね。他では見ない定義ですので他の流派の階梯とは一致しないような気も致しますが、同書に当てはめてみると、私はこの段階にいるように思います。
それにしても、これはわかりにくいです。一見すると「心の動きのことか」と思ってしまっても致し方ない気が致します。