創造・破壊・維持の意識が深まるにつれ儚さを感じ涙が出るようになる

2021-01-10 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

胸の奥にて夜明け感じて創造・破壊・維持の意識が深まるにつれ、日常生活で涙が出てくるようになってきました。

特に特別な理由もなく、他愛のない会話をしたり、普通に生活するだけで無常を感じてその奥底に儚いものを感じ、何かある度にその一瞬の輝きを感じて消え去る感情、消え去る時、その一時の瞬きを何度も何度も感じていると、一つ一つの儚さは僅かなものであっても積もりに積もると次第にそれは何も言われぬ涙へと変わってゆきます。

特に今までと変わったことがあったわけでもないですし、特に不都合のない普段どおりの生活を送れています。

特に悲しむことがあったわけでもないのに、一時の儚さの一瞬のそれぞれが永遠のようにも感じられて、その永遠であるものが形を変えてなくなってゆく、その顕現の明らかさの現れの美しさと、その美しさが保たれている時の安定的な輝きと、その美しさがすぐに消えさる儚さとが交互にやってきて、それぞれが美しいが故に消え去る時の儚さがほんの少しの悲しさとして積もってゆき、やがては小さな涙が出てきます。

この涙は特に大きな何かがあって現れたものではなく、この日常生活の儚さを日々感じることで積もってゆく悲しさであるように思います。

最初は、これは日常生活における特定の何かが原因で起きているのかなと思って一つ一つを辿ってゆきました。しかし、特に何かの大きな理由があるわけでもなく、一つ一つの儚さを感じているのでは、という結論に今のところ達しつつあります。

それと、もしかしたらその悲しみが、単なる儚さだけではなく、この現状の世界、特に私の住んでいる地域に根深く横たわっている悲しみの感情を拾っているだけだ、という仮説も成り立ちます。物事の儚さを感じるということはこの現実をありのままに見つめるということですから、私の住んでいる地域が悲しみに満ちていたら私もその悲しみを拾うのは当然であると言えます。行為としては儚さを見ているわけですが、そこに横たわっている悲しみを拾ってしまっているわけですね。そのような可能性もあります。

現時点ではどちらなのか判断がつきにくいですけど、仮説の一つとしては成り立ちます。

もしかしたら、このように「公」の意識が目覚め始めてしまうと私(=公)が本当に幸せになるためには少なくとも私の住んでいる地域の住民の多くが幸せになる必要があるのかもしれません。

であればなかなかきつくて、私が公と繋がってしまったが故に私が幸せになるための制約条件として公(の人々)が幸せにならなくてはならないのですから、ハードルが高まったとも言えます。

公が感じている悲しみを私が感じている、というのは理屈には合います。

もしかして、両方とも真実なのかも知れません。物事の儚さを感じて涙が出て、人々の悲しみも感じている。ただ、よく見ると、それらはちょっと種類が違うような気もします。

儚さの方が深くて、人々の悲しみはもうちょっと浅いです。ですけど、両方とも悲しみで涙が出てくるような種類のものです。

これは、ヨーガで有名な本山博先生の書物の記述に似ている箇所があります。

自分の存在が無の深淵に対峙していることに気がついて、非常な恐怖を覚えました。もう、ヨーガ行を止めたいと思うほど、その恐怖は熱烈で、深いものです。これは、なんともいえない恐ろしい体験です。この体験の前後に、この世のことや人に対する諦めや遊離の感じがよくしたように思います。「死んでも生きても、絶対なる神の御意志のままに」という神への絶対の信仰がしだいにできてくると、この無の深淵に臨んだ恐怖もしだいにうすらいできました。「超意識への飛躍(本山博著)」

これはヴィシュッダに関する記述の中にありますが、私の感覚もヴィシュッダに即したものなのでしょうかね。私は、恐ろしさというよりは悲しさとして感じましたが怖い恐ろしさではなく悲しい恐ろしさと解釈すれば、内容はどこか似ているように思います。