まず静寂の境地(ゾクチェンでのシネーの境地)に至り、次に静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が出てきて、それは創造・破壊・維持の意識(ゾクチェンでのラントン)となって現れました。
その後、静寂の境地と創造・破壊・維持の意識が共存する状態(ゾクチェンにおけるニメ)に至りました。
これらは、ぞれぞれゾクチェンの以下の状態に対応しているように思います。
(1) シネー (ネワとも呼ぶ) 寂静の境地(→ 静寂の境地、ヨーガスートラのシャマタ(止)に相当)
対象を決め、あるいは対象なしで、意識と視線を固定し、寂静の境地に入っていく。この状態が自然になり、さらに確固としたものになる。
(2) ラントン(ミヨーワとも呼ぶ) より大いなるヴィジョンないし洞察(→ 創造・破壊・維持の意識)
寂静の境地は溶解し、あるいは「目覚めさせられる」。
(3) ニメ(ニャムニーとも呼ぶ) 不二の境地(→ 静寂の境地と創造・破壊・維持の意識が共存する状態)
シネーとラントンは、ともに生じる。二元論の彼岸に至る。
(4) ルンドゥップ あるがままで完全な境地
あらゆる行為において、不二の三昧が継続している。
「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
実際のところ、私の感じた静寂の境地と創造・破壊・維持の意識が共存する状態が不二の境地(一味の境地)だというのはよく分かりません。
まあ、確かに、その状態においては分離はなくて、言われてみればそれは不二と言えばそうなのかもしれないでしょうけど、これはあくまでも説明のためのだけのお話のような気も致します。「二元論の彼岸」とか言われても、ちょっと回りくどい印象を受けます。
この階梯を元にしますと、今後はこれら2つの状態を共存させつつ不二の意識、要はサマーディ(三昧)をし続ければ良い、ということになります。
ゾクチェンにおける修行はシンプルで要は「常にサマーディを保つこと」なわけですけれども、そうは言いましてもすぐにそのように常にサマーディを保つのは難しくて、それ故にこのような階梯が存在しているように思います。
私の場合、これらのステップを踏んできて、不二の意識の入り口に達したと解釈することができます。それは割と日常生活の中でも続いていますけど完全ではありませんのでルンドゥップにはまだ至っていなくて、瞑想状態をなるべく維持しようと心がけているという意味においては私はニメの段階にいるのだと判断できます。