身口意とエネルギーと意思

2021-01-23 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

身口意(しんくい)とは仏教用語で、人の行為である身業・口業・意業の3業(さんごう)がそれぞれ行動・言葉・意思に対応していると言われています。そして、密教においてはこれら3つを一致させるために修行していると言います。

まあ、実際のところ私は仏教の教徒ではありませんので仏教的な解説はこのくらいにしておきますが、私の最近の認識とこれらが重なってきましたので少し記録として書いておきます。

密教あるいはチベット系の書物を読むとこれら身口意の解釈が少し異なっていることに気が付きます。

身→体
口→エネルギー
意→意識

チベット仏教では、どのレベルの教えにおいても、生きものは、身、口、意の三要素からなっていると考える。この三者の完璧な境地は、オーム、アー、フーム、というチベットの音節文字によって、それぞれ象徴されている。身というのは、その生きものの物質的な次元すべてを指す。これに対して口は、サンスクリットではプラーナ、チベット語ではルン(rlung)と呼ばれる。体に生命力を与えるエネルギーであり、その循環は呼吸と結びついている。意は、理性的思考にもとづく表層的な意識と、心の本然の両方を含む。心の本然は、理性を超えているのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

日本の仏教の身口意の説明より、このチベット仏教的な解釈の方がしっくりきます。

仏教では、個人はからだ、言葉、心(身、口、意)(しん、く、い)という三つの側面から成り立っていると考える。相対的な状態(世俗諦)は、この三つの側面から作り上げており、時間の限界と、主体/客体の分裂の中にある。それに対して、時間と二元論の彼岸にあるものは、<絶対的な真理>(勝義諦、しょうぎたい)と呼ばれる。この言葉は、身、口、意の究極かつ本来の境地を指している。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」

ここでポイントなのは、身口意は二元論のお話でサマーディにまだ達していない状態で迷いがあり輪廻転生やカルマに囚われており、一方、サマーディ状態において身口意はなくなるわけではないですけど身口意の顕現をありのままに見られる境地に達して迷いや輪廻転生やカルマに囚われなくなるということです。それらがなくなるわけではなく、身口意は顕現として現れ続けるのですが、それらに限界づけられることがなくなるということです。


これらは、先日のシネーとラントンにそれぞれ当てはめることができるように思います。

(1) シネー (ネワとも呼ぶ) 寂静の境地(これが意に相当)
(2) ラントン(ミヨーワとも呼ぶ) より大いなるヴィジョンないし洞察 (これは口=エネルギーに相当)
 寂静の境地は溶解し、あるいは「目覚めさせられる」。
(3) ニメ(ニャムニーとも呼ぶ) 不二の境地
 シネーとラントンは、ともに生じる。二元論の彼岸に至る。
(4) ルンドゥップ あるがままで完全な境地
 あらゆる行為において、不二の三昧が継続している。

「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

とすると、先日の解釈に加えて、もう1つの要素がこれに絡んでいることに気が付きます。

サマーディ(三昧)の意識にはゾクチェンでいうとろろの「リクパ」が必要で、リクパは以前にもそれなりに出てきていたように思いますが、今から思えば、エネルギーの顕現があってこそようやくリクパが継続的に持続できるように思います。

ですから上記の順番は正しくて、ニメの不二の境地(=サマーディ)はそれ以前にも現れてきますが基本的にはこの順番なのかなと思います。私の場合、以下の順番だったように思います。

(1) シネー(→ 静寂の境地、意に相当。クンダリーニ覚醒後マニプラ優勢になりアナハタに至りアジナに至り静寂の境地に至る。ここまでが初学者の段階
(2) ニメ(不二の境地)が度々生じるが長く持続できない状態。この状態でもリクパがそれなりに働いている。
(3) ラントン(目覚め)(→ 創造・破壊・維持の意識。口=エネルギーに相当)
(4) ニメ(不二の境地)リクパが少しずつ安定しつつある状態。時間と二元論の彼岸にあるもの。<絶対的な真理>(勝義諦、しょうぎたい)に相当。サマーディ。

サマーディの状態は度々生じていたように思います。はっきりした目覚めだったというのはその時々においてはそれなりに大きな経験がそれぞれあったように思いますが、基本的には段階的にサマーディが育ってきているような気が致します。

サマーディの最初は、カニカ・サマーディとも呼ばれるような視界がスローモーションで認識される状態が最初に現れてきたような気が致します。その後、それは少しずつ深まったり少し戻ったりしつつ全体的には深まってゆきました。これらの状態がニメ(不二の境地)の最初の状態だったように思います。

その後、 創造・破壊・維持の意識が出てきたことで新たなエネルギーかつ意識と接触し、それと一体になり、ラントン(目覚め)に達したように思います。

そうして、ラントンに達するとすぐにニメ(不二の意識)が安定してきて、割と日常生活の中でもそれなりにニメ(不二の意識、サマーディ)が継続的にできてきたような気が致します。

私はいまはこの段階ですね。きっと。

特別に何かをしなくても日常が瞑想になって修行になるのが理想ですけど、そうは完璧にはいかないので瞑想やヨーガもしている感じです。

今後、これが更に安定してきて日常生活において常にサマーディが維持することができるようになったらルンドゥップ (あるがままで完全な境地)に至るのかな、と思っております。