先日のお話を別の面から見ますと、最初は身口意(しんくい)で次にリクパのあるサマーディ(不二の意識)に至ります。別の言い方をしますと、静寂の境地(シネー)の次にサマーディ(リクパのある不二の意識)に至ります。
基本的にはこの順番になるのが多いとは思いますが、理屈としては、静寂の境地(シネー)なしにいきなりサマーディ(リクパのある不二の意識)に直接入ることも可能だとは思います。
しかしながら、ステップを踏んだ方が安定すると思います。再現性がある、とでも言いましょうか。
もともとリクパの不二の意識がそれなりに働いている人であれば静寂の境地(シネー)なしに直接サマーディに入れると思います。そういう人はいるでしょうし、特に子供の場合はまだこの世の雑多なまつわりに絡め取られておりませんからそういうこともあるでしょうし、大人であってもそういう人はいるかと思います。
とは言いましても、伝統的な瞑想においては最初にシャマタ(止)をします。
そして、やがてリクパの不二の意識が働きだしたら実際のところシャマタ(止)はそれほど必要ではない... と言うと語弊があるかもしれませんけど、シャマタ自身が最終目的ではなくてシャマタ(止)は一つのステップですから、リクパに至るためのステップなわけです。
リクパの意識というのは別の言い方をするとヴィパッサナーで、雑念や体の感覚など身口意の全てを観察する意識がリクパなわけです。その中で、特に意識を静止させて静寂の意識に入ることはそれが最終目的ではないにせよリクパの意識を目覚めさせるために有用なわけです。普通の人の場合はリクパの意識は眠っていて、それは仏教では「無知」とか言われている状態ですけど、そのリクパの意識を働かせるためにはシャマタ(止)などが有用なわけです。
リクパが働き出せば雑念や考えが出てきてもそれ自体をありのままみ見ることができるようになってきますから、意識的にシャマタ(止)をする必要がなくなってくるわけです。
このあたりは前にも似たような分析をしたことがありますけど、その時よりクリアにこのあたりを理解できるようになった気が致します。