ヴィパッサナー瞑想のやり方の説明で「皮膚の観察を観察しましょう」とか「歩くときの感覚を観察して気付くようにしましょう」というのがありますけど、これには2つの意味があります。
A. 努力して皮膚や歩くときの感覚を観察しましょう。(時にはそれを言葉にしてラベリングしましょう)
B. 努力せずに皮膚や内的感覚を観察しましょう。
これは往々にして同じ文節で、一つのヴィパッサナー瞑想というやり方の説明でさらっと並列に並べられることが多いような気が致しますが、実際、別々のお話です。
A. 努力して意思を駆使して体の観察をするのであればそれはサマタ瞑想(集中瞑想)です。
B. 努力せずに意思が自動的に働いて体の観察をする状態であればそれはヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)。
ですから、体の観察をしています、とか、ヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)をしています、とか言った時に、どちらをしているかで状態が全く異なるわけです。
これは、それぞれ以下の段階に相当します。
5.プラティヤハーラ(制感) → Aの段階
6.ダーラナ(集中)
7.ディアーナ(瞑想)
8.サマーディ(三昧)→ Bの段階
ですから、相当に違う状態であるのですが、何故か、ヴィパッサナーの流派によってはこの説明がごっちゃになっていることがあるような気が致します。
どちらも言葉で言い表しますと「観察」と言えなくもありませんから、6以降の境地を知らない人は5のプラティヤハーラの境地を悟りのように勘違いしてしまうこともあり得るわけです。これは比喩で言っているわけではなくてそれっぽい人がぼちぼち散見されますのでこう言っているわけですが、そのように勘違いをしている人の特徴として「集中を否定する」ということが挙げられます。ですから、必ずとは言えないのですが簡単な見分け方は「集中瞑想を否定する人はプラティヤハーラの段階にいる」と思うとそんなに間違いではないと思います。
どちらも表現としては似ていて、だからこそ言葉だけで勉強してしまうと混同しがちなのですよね。
こういう時に適切なグルが近くにいればすぐに見抜いて指摘してもらえることを期待したいですけど、最近はグルっぽい人がいたとしてもよく分かっていなかったりしますし。グル次第ではありますけどきちんとしたグルがいれば修正が効くものとは思います。
プラティヤハーラのレベルは悟りと混同しがちな落とし穴ですので、そこにハマってしまっている方も多いですよね。
ですけど、とりあえず今世を幸せに暮らす分にはプラティヤハーラでもそこそこ楽しく幸せに暮らすことができますので、わざわざその勘違いを指摘する必要もないかな、という気も致しますよね。この世にはプラティヤハーラにすら達していない世俗の人間が大勢いますから、そのような人たちと比べると十分に進歩していますので、自称悟りに達したとは言っても物足りなくはあるのですが、ある程度は幸せでしょうし、自分がそういうのでしたら好きにすればいいと思います。
プラティヤハーラのレベルですと、宗教をどちらかというと唯物論で捉えがちな気も致しますね。よく分かっていない世俗の僧侶が道徳を持って語る時はこのレベルですし、瞑想の流派によってはマインドフルネスですとかゴエンカ式はこのレベルです。
一方で、サマーディのレベルになると割と霊的な世界に入ってきて、先祖霊や守護霊、ハイヤーセルフ、過去生、未来生、遠隔視などのお話が入ってきます。割と今ではスピリチュアルな分野のように思われていますけど、ヨーガでも仏教でも、ある程度のレベルに達すればこのようなお話は普通に入ってきます。
この種のお話になると唯物論の人は入ってこられないですよね。プラティヤハーラのレベルで自分が悟っていると思っている人たちは往々にして霊や高次元のお話を拒否したり否定したりばかにしたりしますから、そのような言動があればその人がプラティヤハーラのレベルで唯物論のレベルなのかそれとも高次元のことがわかる人なのかよく分かるわけです。
仏教ですと何か見えたりすると魔境とか言って否定したりするみたいですけど、別に、大したお話でもないと思いますけどね。魔境とか言っているのは、教義の根本のレベルがプラティヤハーラで留まっているからこそその上の階層を理解できないでいるような気も致します。実際のところ魔境でもなんでもなくて、それがこの世界の姿なのですから、もう、仕方がないですよね。魑魅魍魎に気付かずに魑魅魍魎の中で暮らすよりも魑魅魍魎に気付いて少しずつでも対処してゆく方が遥かに健全だと思いますけどね。魑魅魍魎にやられてしまうのはエネルギーが低いからであって、クンダリーニを活性化してエネルギーを上げないといけませんしね。
まあ、そんな感じで、プラティヤハーラのレベルですと色々と勘違いをしていて、サマーディのレベルを思い違いしていたりすることもあるのかなと思います。