先日の続きです。スローモーションのように体の動きを感じられるようになりましたが、その状態の時は「わたし」という感覚が「(肉体の三次元的な)体」と一致しているような気が致します。
これは説明を要するかもしれません。
スピリチュアル等で、「わたし」は体ではない、と散々言われてきた方もいらっしゃるかもしれません。本当の「わたし」は肉体の体ではなく魂の方であって体は仮の姿に過ぎない、と。確かにそれはその通りなのですが、ここでは、私が感じたそのままの感覚を表現しています。
更に、もう少し説明がないと混乱してしまうかもしれません。
まず、大きく分けて2つの潮流があります。
・プラティヤハーラこそが悟りとする流派。主に顕教。
・サマーディを悟りとする流派。主に密教。
このうち、プラティヤハーラの段階ですとまだ確固に「わたし」という自我(サンスクリットでアハンカーラ)が存在しておりますので、「私は肉体ではない」という教えが重要になります。自我が強いために自分と肉体などを強く結びつけてしまっているのですよね。この段階の人にはスピリチュアル等で「私は肉体ではなくて魂こそが本当の自分なのです」と説くのは正しいと思います。
一方で、プラティヤハーラを越えてサマーディに到達した場合は自我がかなりなくなっております(ゼロではありません)ので、「私は肉体」という感覚は希薄になっております。ですから、自我と肉体との結びつきはかなり弱まっている状態なのです。
最初の方で、「わたし」という感覚が「(肉体の三次元的な)体」と一致している、と書いた時、ここでいう「わたし」とは自我のことではなく、サマーディ状態に存在する、自我を越えた「観察している、奥深くにあるわたし」という感覚のことを意味しているのです。
自我としての私は論理的思考などでまだまだ活用していく必要がありますのでそれは永久になくならないと思います。ヨーガ的には自我と言うと単にアハンカーラで思考能力はなく、ブッディ等が該当するのですが、まあ、分かりやすく言うには自我が思考する、と思っても差し支えないと思います。
そのように、プラティヤハーラの段階では自我を抑える必要があり、それ故に体と「わたし」を結び付けようとするとそれは自我の強化に繋がってしまいます。
しかしながら、サマーディの段階では自我は落ち着いておりますので、奥深いところにある「わたし」と言う微細な感覚と「肉体の体」とが結びつくことで日常の状態でスローモーションのように体の動きを感じる観察状態が続くわけです。
これらの違いを踏まえずに、プラティヤハーラの段階でサマーディを真似して「体の感覚を観察」しようとすると自我が深まり、自我が確固なものになり、よって自我が拡大したために怒りの沸点が下がってキレやすくなったり自己嫌悪に陥いる・・・。と言うのが例えばゴエンカ式ヴィパッサナー瞑想で陥っている落とし穴のような気も致します。この辺り、長年の疑問がようやく最終解として解けた気が致します。
体の観察をする、と言う瞑想は自動的に起こるようになるもので、やり方を真似するものではないのですね。そう言うことだと思います。
一部の流派、テーラワーダ仏教やミャンマーの流派ではヴィパッサナー瞑想として体の感覚の観察を行うとかしていますけど、ああ言うところは歴史があって瞑想のグルがきちんと指導してくれるからこのような落とし穴に落ちても気がついてくれるのでしょうけど、ゴエンカ式のように単なるビジネスマンが始めたセミナーですと指導者と思しき人がいるにはいるのですがそう言うところまで指導できないのでしょうね。ゴエンカ氏本人が無償で始めたと言うのは評価できますけど、あんまり瞑想がわかっていないビジネスマンがブッダの瞑想を書物で勉強して真似して始めてしまったが故に色々と変なことになっている気が致します。最近はその状況に気がついたのか、歴史のある流派で勉強した人が入ることで是正している面もあるようですが、相変わらず落とし穴に落ちっぱなしの人もいらっしゃるように思います。この世界は瞑想が足りていませんから間違いだとしても勉強のために瞑想をするのは良いことだと思います。回り道でも瞑想は世界のためになります。このブログは単なるメモですので、特にその団体に是正しろとは言いません。ただ単に、興味深く世界を眺めているだけのことです。