チェルドルでは、多少時間をかけて段階的に静寂の意識が表れました。意識が多少ざわざわしている平準状態がしばらく続き、ふとした拍子に一段階づつ静寂の意識に近づいて行きました。
最初の頃はチェルドルでも瞑想が終わると次第に意識が雑多なものへと帰ってゆきましたが、次第に、それほど戻らなくなり、それなりに静寂な状態を日常生活で保てるようになります。
最初の頃は瞑想を始めたときにチェルドルで何度も意識の平穏に鎮めてゆかなくてはならなかったところが、やがて、日常生活および瞑想のスタート時点でそれなりに意識が鎮まっているのでそこからチェルドルで意識を鎮める程度が少なくて済むようになりました。
そして、チェルドルである程度の意識が平穏になった後、シャルドルが起こります。シャルドルでは雑念が生じても少し観察すれば滴が太陽に照らされて蒸発するかのように消えてゆきます。おおよそ5文字から10文字くらいで携帯の電波が悪くなるかのように、あるいは、ラジオのボリュームが小さくなるかのように消えてゆきます。
そして、その状態から更に集中を深めると、文字でいうと1文字表れたかどうかのところで消えてゆくようになります。おそらくこれがシャルドル、あるいはシャルドルの前兆のようなものではないかと思います。
1.チェルドル
2.シャルドル
3.ランドル
究極的な自己解脱の能力は、ランドルと呼ばれる。これは「自然にみずからを解放する」ことを意味し、蛇が自分のどくろをやすやすと、瞬間的に、素早く解くようすにたとえられている。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
この状態に完全になったわけではない感じが致しますが、その前兆はあるような気が致します。あるいはシャルドルでしょうか?
ここでいう「集中を深める」とは、五感の何かに集中するという意味ではなく、意思を使って体の奥底にあるオーラを律するという感じのものです。既に自我は鎮まっていますから五感も鎮まっておりますのでそこは手を加える必要はなく、意思でオーラを律することで、具体的には思考をまずは制御するわけですね。
まずチェルドルで意識を段階的に鎮めます。意識を鎮めるということはオーラを鎮めるということです。その後、オーラと意識が安定するとシャルドルで雑念が自動的に消えるようになります。そして、シャルドルに至るためにはおそらく、もう一段階、意識とオーラを鎮める必要があると思うのです。そのことを意思でもって「更に集中」と表現しています。おそらくはもっと進むとこのような努力も不要になるとは思うのですが、今一歩足りていなくて、今のところは意思で段階的に進める必要があるのかなと思っております。そうして瞑想である程度の集中状態になると、シャルドルの前兆ではないかと思われる状態に達したわけです。
書物の説明を読むと、この状態こそが二元論を超えた状態であると言いますが、今のところ、それほどピンときません。しかし、説明を読む限りは一応は理解できます。
完璧に二元論を超えた、瞬時の、瞬間的な自己解脱である。主体と客体の分離は自然に崩壊し、習慣となった見方、区切られた鳥籠のような自我の声は、存在そのもの(法性)の、空のような顕現の中に解き放たれる。(中略)修行者は原初的な知恵を体験する。対象が生じると同時に、それが自らの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。空性と顕現の統一の境地、そしてその境地そのものと空性が、ともに存在しているということが、すべて同時に経験される。だからすべては「一味である」すなわち主体と対象はいずれも空である、ということになる。二元論は完全に克服される。主体や対象が存在しないというわけではない。とだえることなく三昧が持続し、自己解脱の修行をつうじて、二元論に限界づけられなくなるのである。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」
私はどうやらまだ完璧に二元論を超えてはいないように思いますが、内容はよく理解できます。雑念が印象を生み出し、実態があるかのような幻想を作り出している一方で、その幻想を作り出している雑念あるいは思考というものが瞬時に(空に、あるいは、無として)消えてしまうということは、存在と非存在、どちらも実は空なのだとしたらそのようなものなのでしょう。実在というものは人の印象があるからこそ存在しているもので、人の印象というものは雑念がすぐに消えてしまうようにはかなく、空から雑念が生まれたことにより実在が生じたかと思えば瞬時にそれはすぐに雑念として消えてしまうことで実在としてもなくなってしまうのだと思います。このことを古来、「空」から生じて「空」に消えるとか、そのように様々に表現してきたのかな、とも思います。
これは、認識がこれ以上進んでしまうと変化が早すぎてわかりにくくなってしまうので、今くらいの中途半端な状態の方が細かく見れていいような気も致します。なんとなくの感覚ですけどね。もっと進めば瞬時にこれが起こってしまうのでよくわからなくなってしまうような気が致します。今は、言葉にすれば1文字くらいではあっても一瞬の時間差があって雑念が消えてゆきますので、これが更に進んで瞬時に消えてしまうとなると、それはそれで違った印象になりそうです。
雑念が起こる前は静寂の境地で、それはいわゆる「空」の境地にいると思います。そんなときにも雑念は浮かんできますので、雑念が浮かんできたらそれと同時に具体的な印象も生じ、それはいわゆる「実在」として実体のあるものとして心の中に(一瞬とは言え)浮かんできます。ヨーガでは、対象というものは人が認識するからこそ存在する、と説いています。その原則を当てはめるのであれば、心の中に雑念あるいは印象として実在が存在する時だけ対象が存在しているわけです。しかし、その対象というものは元々は雑念でしかなく、その雑念というのは、もともとは「空」の意識から浮かんできたものなのです。そして、(いわば無あるいは)空から生まれた対象が、またすぐに(無であるところの)「空」へと帰ってゆく。ですから、実在は全て「空」である、と言えると思うのです。
この世界は全てが神様の意思で充満していて、本来は「無」とは言えないと思うのですが、何もないような空間という意味であれば「無」と言っても良いとは思いますが、それよりも、存在しているのだけれども空っぽのように認識される、という意味合いからすれば「空」の方が適切のような気も致します。
引用分にある、主体と対象(客体)との違いがなくて両方とも空であるということは、このあたりから理解できると思うのです。まず、自分の意識というものは清浄な意識で平穏なもので、それは無ではなくむしろ空ともいうべき意識が空間に充満したものになります。そこに、印象として雑念あるいはトラウマでもいいですけど何かが浮かぶと、それにより対象が表れます。自分の意識が生じて対象を認識して初めて対象が存在するのですから、それは、自分の意識そのものであるとも言えるわけです。実際、自分の中に生まれた感覚・雑念・印象そのものが実在としての対象を生み出すわけです。自分の中にそれらが生じて初めてこの世界に対象が存在できるわけで、自分が認識していなければ対象が存在しないわけです。
その知識の前提に立てば、瞑想中に起こっている雑念の生起および消滅のはたらきが、実は二元論を超えることの証明になっていることが理解できるわけです。
おそらくは、これは瞑想で経験するだけではわからないことで、瞑想で経験することと、知識(ニャーナ)が組み合わさって初めて起こる理解なのだと思います。・・・と今は思っているだけで、実は瞑想だけでも理解できるかもしれないですけど、今のところは、そんな気がしています。
瞑想で知覚できるのは上記に書いたように、静寂な境地で雑念が生起してそれがすぐに消滅するということだけです。それに、印象が対象を生み出している、という知識を加えた時、その知覚は単なる知覚ではなく、知識になるわけです。ただまあ、もっと瞑想を深めればそのうち理解できる気も致しますけど、それはそれで、また実証すればいいことですし。
ひとまず、理屈として理解するのはそれはそれであっていいと思います。