先日の続きです。意識の裏側にある漆黒が表側に注ぎ込まれると、やがて、身体中にその漆黒が行き渡り、漆黒の濃度が濃くなってゆきます。すると、身体中が内側から外側に向かって膨張するかのような圧力を感じるのですが、体あるいは自分の微細体が一定の大きさの枠組みを持っているためにそれ以上大きくなれずに身体中に圧力らしきものを感じます。
その圧力が一定以上になると少し圧迫されて苦しい感覚も少し出るのですが、言葉でいうほど苦しいわけではなく、圧力が強いので何となく苦しい気分がちょっとするだけで、実際は苦しいというよりも、単に圧力を感じて窮屈な感じがしているだけ、とも言えます。
この圧力は、おそらくはエネルギーなのではないかと思います。かつては「こちら側」に現れる時は雑念や観念として現れてきたものが、そのエネルギーそのものが「むこう側」から「こちら側」へと流れ出るようになったのかなと思います。もしかしたらこれを人によっては次元の扉のようにいうかもしれませんが、次元の扉かどうかはよくわかりません。高次元のエネルギーが少し下の次元に流れ込んでいる、と考えることもできますが、それが正しいかどうかは今のところわかりません。
私は「圧力」とか「漆黒」として認識しましたけど、書物を読むと、これは「光明の体験」としてエネルギー的な観点から説明されているような気が致します。
光明の体験は、エネルギーすなわち声の側面と結びついている。そのあらわれ方は、感情や光のヴィジョンをはじめ、多様だ。たとえば、守護尊のマンダラの清浄な顕現は、光明の体験である。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
更には、これらの経験はあくまでも経験であり、サマーディ(三昧)の気付きの境地にい続けることこそが重要であるという。修行における経験は無限の種類があるが、気付きの境地に留まるという点においては共通だとのこと。これはよくわかります。
楽の境地や空性の境地にありながら、そこに三昧の覚醒が保たれていなければ、まるで体験の中で眠り込んでしまったようなものだ。(中略)楽の体験と空性の体験は、まったく違う。だが、それらの体験のもともとの本性は一つだ。(中略)覚醒した叡智は唯一のものであり、心を超えている。ありとあらゆる無限の顕現の土台となる不二の境地とは、この覚醒のことだ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
同書によれば不二の境地には以下の3つの経験が生じてくると言います。
・無分別の経験<意に対応>
・光明の経験(上記参照)<口(声)に対応>
・楽の経験<身に対応>
無分別の体験は、文字通り思考がわきあがってこない状態と、思考がわきおこってきても、それによってさまたげられない状態の両方を指している。この体験は、心の<空性>の境地として定義することもできる。それは、心がリラックスしたことから自然寺生じてくる現象だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
楽の体験は、身体のレヴェルと結びついている。寂静な境地(「止」)の修行を長い間続けていると、身体がなくなってしまったような感覚や、まるで自分が、虚空に浮かぶ雲の真ん中にいるような、大きな喜びを体験することがある。それが楽の経験の例だ。「ゾクチェンの教え(ナムカイノルブ 著)」
これらの経験は素晴らしい経験ではありますが、それはサマーディ(三昧)の境地に往々にして付随する経験であり、ただそれらはサマーディの境地そのものとは異なると言います。不二の意識のみがサマーディの本質であり、不二の意識以外のこれらの経験はあくまでもサマーディではないサマーディに付随した経験であり、大切なのは覚醒の意識そのものであり、覚醒の意識とは不二の意識のことであるというのです。
これはとても単純なお話ですが、説明しようとするとなかなか困難なお話のような気が致します。静寂の境地そのものは経験であるとも言えますし、その状態においては不二の覚醒の境地が伴っているとも言えます。静寂の境地に至った結果、静寂の境地の中に眠り込むこともなくはありませんが、不二の覚醒がなければすぐに静寂の境地から滑り落ちてしまいます。ですから、静寂の境地はいわばシンボルであり、人はそこを目指しますが、静寂の境地のためには土台として不二の意識が必要なのですよね。そして、不二の意識の部分こそがサマーディの本質であるわけです。
これは、サマーディが育ってくるときに出てくる主な能力であるチェルドル、シャルドル、ランドルにも関連性があるように思えます。不二の意識が育つにつれて3つの能力(チェルドル、シャルドル、ランドル)が出てきて、それに付随して、3つの経験(無分別の境地、光明の経験、楽の経験)が生じるわけですね。
このような「経験」の部分を重視しすぎる必要はないですけど、軽視しすぎる必要もないわけです。それはそれとしてあるわけですから、ありのままで良いわけです。重要なのはサマーディの不二の意識なのですから、それさえわかっていれば、経験を捨てる必要もないわけです。
古典ヨーガやヴェーダンタの一部の流派によっては「経験」の部分を軽視していたりしますけど、グルに「経験は重要ではない」と言われたからと言って探求を簡単にやめる人は上達しない、と個人的に思います。グルに「経験は重要ではない」と言われたとして、その意味はこのように「サマーディの不二の意識が大切なのだ」という意味であって、経験を捨てなくてはならない、という意味ではない筈です。経験はありのままに存在していれば良い。しかし弟子は勘違いして経験は重要ではない、という言葉だけが一人歩きして、経験をした人に対して「経験は重要ではない」と言ってマウンティングの道具にしてしまう。そんな愚かなお話が時々散見されます。そのようなマウンティングに屈せず、経験は経験そのものとしてありのままとして存在していて、経験すらもどのようなことなのだろうかと探求し、サマーディの不二の意識と経験の関係、意識との関係の探求を続け、グルの教えを鵜呑みにしたりせずにどのような意味なのだろうかと自己で探求する人だけが成長するのだと思います。せっかく古典ヨーガやヴェーダンタを勉強していても、このようなマウンティングの罠にハマっている人がぼちぼち散見されます。そんなことに関わらず、本質である、不二の意識に留まり続ければ全てはありのままの世界として見えてくると思うわけです。
体のエネルギーが高まって圧力が高まる経験はあくまで「経験」ですけど、古典ヨーガやヴェーダンタの流派によっては簡単に「そんなことは重要ではない」と切り捨ててしまっています。そのように捨てることで否定してしまうことはマイナスでしかなく(本人たちは否定していないというでしょうが)、個人的には、その経験自体をありのままに眺めればよくて、結局、必要なのは不二の意識だけであるわけです。古典ヨーガやヴェーダンタを勉強している人は同じように不二の意識だけが重要と言いますし、言葉だけを見ると正しいのですけど、何か、どこか違和感があったりします。もちろん人によりますけどね。その違和感を捨てずに追求しないと落とし穴にハマってしまうこともあるわけです。これは、不二の意識を勉強する人が勉強しすぎることによってハマる落とし穴の1つです。であれば、そんなに勉強しなくても、まず瞑想するなどして自分の意識が進んで変化してから初めて書物を探して確かめる、という方がよほどいいと思うのですけどね。
何が一番大切かと聞かれたらもちろんサマーディの不二の意識が重要と答えますが、ですが、エネルギー的な観点も重要でエネルギーが高ければネガティブに影響されにくくなってポジティブになりますから光明の経験は重要ですし、意識の平穏がなければエネルギーも安定しませんから無分別も大切です。リラックスできていなければエネルギーの消費が激しくて疲れやすいですから楽の経験だって同じくらい重要です。ですから全部重要なわけで、何か1つだけあればそれで完璧と言うわけにはいかないと思うのです。そして、それを支える土台の部分がサマーディの不二の意識であるわけです。
■真言宗の三密
私は真言宗の修行はしたことがありませんが、上記の内容は真言宗の三密と似ていて興味深いです。
身密 印を組む。身体。
口密 真言を唱える。言葉。
意密 仏を観想する。心。
→ これらを達成して御本尊と一体となることが三密加持。
意味が少し変わって伝わったのか、それとも、表向きはこのような意味で、実際は同じような意味なのでしょうか? ひとまずメモしておきます。