ゾクチェンのテクチューとトゥガルは表裏一体

2020-09-22 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

瞑想で覚醒を保っていると、雑念が1〜5文字程度で崩壊する様を体験します。そして、その雑念が出てくる奥に漆黒の雲が存在して、その「裏側」から雑念が現れたり、あるいは、こちら側に裏側から漆黒が流れ込んでくると言う経験をします。

その状態が、チベットの本にあるテクチューとトゥガルの内容に多少似ていることに気がつきました。

テクチューは「断ち切る」と言う意味で、心の本性に留まっていることを目的とし、迷いを断ち続ける。一方、トゥゲルは「超える」という意味で、断ち切ることで自ずと生起するヴィジョンを活用する修行だ。しかし、これは本質的には同じ修行の2つの側面だ。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル著)」

これがそれぞれ、テクチューが雑念が1〜5文字程度で崩壊する様に相当し、トゥゲルの方が漆黒の雲を認識してそれと一体になるというプロセスに合致しているような気が致します。トゥガルの方はまだ始まったばかりという気も致しますが、方向性は分かります。

テクチューによって修行者は、空の元素と統合する。(中略)すべての現象は、生まれては消えるにまかせ、執着も拒絶もせず放っておくのだ。このときは、起きていることに反応しようとする「主体」もない状態だ。ただ、清らかな空に留まっている。(中略)不二の覚醒意識のなかに、自己を溶かし込み、生き生きとした覚醒の空そのものとなり切ることだ。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル著)」

これはよく分かります。不二の意識で三昧に留まることで清らかな状態に留まることが「空」と呼ぶのでしょう。「空」について色々と定義がありますが、これはかなりはっきりと「空」を説明したものであるような気が致します。

トゥゲルでは、光の輝きを強調する。これは、光の修行だ。(中略)トゥゲルでは、元素のエネルギーの顕現を心の本性に統合する。(中略)不二の覚醒意識のなかに留まっていると(つまりこれがテクチューだが)、空なる現象の連続、とぎれることのない光の流れが感受される。(中略)いっさいが顕現するままにまかせていること。それがトゥゲルの修行だ。「チベッタン・ヒーリング(テンジン・ワンギェル著)」

ここで言っている「光」を私は「漆黒の雲」と認識しているという点こそ違いますが、内容的にとても類似しているように思われます。とは言いましてもこの黒はやがて輝くようになるということのようですので、あまり気にすることではないかなと思っております。黒と言いつつも漆黒の黒ですので黒光りしているキラキラとした黒曜石のような輝きをしたふわふわとした雲ですので、これが光だと言われれれば確かに内部には光を内包しているような気も致します。

サマーディ(三昧)の状態でむきだしの心(リクパ)であるところの不二の意識が基礎となり、テクチューで空の意識を保ちながらトゥゲルでエネルギーの顕現に向き合うのですね。

このように整理してみると、サマーディ以降の流れがとてもすっきりと理解できたような気が致します。