悟りとは日常生活において常に意識が時空を超えていること

2020-12-12 記
トピックスピリチュアル

一時的に瞑想をしたり幽体離脱して同様の状態になったのは悟りを垣間見たことであり、悟りの状態には違いありませんけど、日常生活でその状態を保ててこその悟りなわけです。垣間見ただけでも素晴らしいことですけどね。

幽体離脱で時空を超えることは、他の人に手伝ってもらって幽体離脱すれば割と誰でも体験できます。

私も、大学生の頃に知り合いの女の子の魂を体から引き抜いて世界を見せたことがあります。まあ、はっきり言って「わかってない」子でしたけどね。哲学とか勉強はそこそこできましたけどスピリチュアルな事柄に関しては無知というか斜め上を向いて理解していて、本質がわかっていない感じでした。

そんな子であっても、私が幽体離脱をして、両腕を脇の下から引っ掛けるようにしてその子の幽体を体から引き離してあげたら、最初はちょっと力がいりましたけど体から幽体が離れて幽体離脱状態になりました。

自分では動けないようでしたので私がそのまま引っ張って時空を超える形でいろいろ見せてあげましたけどね・・・。

まあ、あの程度の未熟な魂でも、誰かに見せてもらうという方法であれば時空を超えられるのです。

ですけどね、肉体に戻ってからも幽体離脱で時空を超えた記憶こそあれ、その子の意識は日常生活では時空を超えることができないわけです。

幽体離脱も、悟りの階梯の途中で自然にできるようになるのと、テクニックや他人に手伝ってもらって行うのとではちょっと違うわけです。テクニックは色々とありますけどね・・・。でも、テクニックでやる場合は日常生活との乖離が大きい気がいたします。

瞑想も似たようなもので、瞑想中で色々と見聞きするでしょうけど、それが日常生活に活かせてこその悟りなわけです。

瞑想には色々とあって、トランスとか静寂とか色々とりますけど、種類によっては自我を麻痺させる種類のものがあります。自我を麻痺させる種類のものですと日常生活と瞑想の差が激しくて、瞑想中の体験と日常生活の間に乖離ができると思います。

そうではなくて、瞑想中の状態と日常生活との間の差がどんどんなくなるのが理想的なわけです。

幽体離脱も一緒で、テクニックで幽体離脱して一時的に宇宙意識や時空を超えた意識になったとしても肉体に戻ってきて日常生活をする時にどれだけ活かせるかが重要なわけで。

最終的な悟りの状態というのは日常生活を送りながら意識は宇宙と繋がっていて更には時空を超えて過去や未来およびパラレルワールドやそれらの間の「線(比喩)」までも把握できる状態なわけです。そうなれば過去も未来も、あるにはありますけどただ単に一つづつ順を追って理解したいから存在しているだけ、ということもわかります。意識は時空を超えていますけど、意識が理解するために時間というものがあって分割して物事が理解できるようになっているわけです。時間がなければ物事の理解が「一瞬」でやってきて、分かる人にはわかりますけど新しいことの理解は難しくて、順を追って理解するために分割したらそれが時間というものになっただけなんですね。元々は時間なんてありませんでしたけど、理解したい気持ちが分割するという手段を選んで、それが時間というものになったわけです。ですから本来の意識は時空を超えているわけです。意識が日常生活においても時空を超えて時空そのものを把握しているのが悟りの状態なわけです。その時に三次元の肉体としての意識が失われることはなくて、トランス状態のように意識を失うこともありませんし、日常の普通の意識と悟りの意識とが一続きで繋がっている状態なわけです。

それが「本来の自分と繋がっている状態」とも表現できますけど、言葉通り読んでしまうとただ単に意識が静まってきた状態のように読めるかもしれませんが、本来はそれはヴェーダで言うところの「アートマン(自分の魂に相当するもの)」が実は「ブラフマン(この世の全て)」と同一だった、という知識のお話で、自分がアートマンだと思っていたけれども実はブラフマンで、確かにアートマンで分かれてはいるけれども宇宙意識としてはブラフマンで繋がっている、それは時空を超えていてパラレルワールドや過去や未来も全て私の意識の中にある、それが瞑想中や幽体離脱中だけでなく日常生活においてもその意識状態にいる、というのが悟りの状態なわけです。アートマンであって同時にブラフマンであるということは、アートマンとしての個の意識は存在していつつもブラフマンとしての宇宙意識も同時に存在しているわけです。どちらか片一方になるわけではないわけです。個としての意識はありつつも宇宙意識とも言える時空を超えた意識もまた同時に存在しているわけです。

であれば、日常生活中にちょっと意識すれば過去や未来の行く末なんてのもすぐに分かりますし、誰かが平行世界でどんなことをしでかしたのかとか、今生での学びがどのようなものなのか、知ろうと思えばすぐに分かります。ですけどそこは紳士の誇りのようなものがあって誰それ構わず見るなんてことはしないです。悟っている状態なら見ようと思えば何でもわかってしまうわけですけど、我々は肉体を持って生きているわけですからわかったところでそれを構わず言うなんて野暮なことはしないですし、そもそも、興味がなければ見ようとも思わないことも多いです。

どちらにせよ、そこには顕在意識と宇宙意識とも呼べるものが共存していて、日常生活において悟りが継続してこその悟りの状態なわけです。

もっと意識が進むとアバターとも言われている状態になって、この世を自由に変換できる能力が現れます。ヒマラヤ聖者の中でも特に突出した聖者がアバターと呼ばれていますけど、アバターにまでなりますと天気なんてのは割と簡単に変えられますし物体も自由自在、いわゆる瞬間移動みたいなこともできます。宇宙意識にしてもレベルの違いがあるわけです。

単に意識で宇宙意識と繋がったのが悟りで、この世界を自由自在にできるのがアバターなわけです。
アバターにしてもレベルの違いがあるようでそれすらもゴールではないようです。

アバターがどのようなものなのか理解することはこのように文章で説明されれば一応は理解できるでしょうし、アバターな人はそんなにはいないですけどどこかの聖者に会えたり幽体離脱して運良くアバターを垣間見ただけでもその凄さがもっと直接的に理解できるわけですけれども、実際に自分がアバターになるのは常人には長い道のりです。まずは悟ってからですね。人生を生きる上では悟りですら十分であると言えると思います。それを言ってしまうと、単にリラックスできたり静寂の意識にいるだけでも十分と言えば十分であるわけで。もっと言えば、この世に生きているだけで十分とも言えるわけで。どのレベルを自分が目指すか、ですよね。悟りを目指すのかアバターを目指すのか。あるいはリラックスで満足するのか。悟りを知って満足なのか、それとも実際に悟りたいのか。

私の人生の元々の目的は悟りまでですけど一応は目標は高く持ってアバターとしてあります。きっとアバターには到達できないでしょうけど、それはそうでも構わないわけです。こういうのは目標だけ一応掲げて、あまり片意地を張らないのが重要です。