既に空無辺処に入っているのかもしれない

2020-12-18 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

禅定(サマーディ)は色界と無色界に分かれていて、色界は第一から第四禅定、無色界には4つの定があります。

・空無辺処(くうむへんしょ)→これ
・識無辺処(しきむへんしょ)
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)

これらはテーラワーダ仏教などでも説明されていて、わかるようなわからないような説明を読んだ記憶があります。流派によってはこれらをほとんど重視していないところもあるようです。以前にも考察したことがあるのですが、わかるようなわからないような、不思議な感じでした。それがここにきて、どうやら今までの理解は異なっていたのかもしれないと油井真砂さんの著書「信心と座禅」で気付かされました。

同書によれば、4つの禅定は「有から無」へと転ずる段階で、これら4つの無色界は「無から空へ」と転ずる段階だというのです。そして、無色界の禅定は一応は「物の形を取らない」ということにはなってはいるが、最初の段階である空無辺処ではその力は弱いと言います。

実はまだ有・無・空の中の無の世界であるが故に、見えぬ力である心所が、有の世界の影をたたえて残存しているのである。即ち、ただ茫乎(ぼうこ、広々)とした世界ではあるが、何処かに残存する自己というものが微かに感じられる境地である。(中略)定力が澄むにつれて(中略)心所相のみがただひとつ微かな色相をとどめて気付かれぬ最後のものとして残るのである。「信心と座禅(油井真砂著)」

これが空無辺処の段階ということです。4つの禅定を超えて、無想定を通り越して、その次は色(形)がなくなるまで瞑想を続ける、ということですね。であれば、私は今ここの段階にいると言えるかもしれません。

第四禅定を達成した状態が最初に感じた(偽の)涅槃に似た安住な状態で無想定とも呼べる状態だとすれば、そこから更に進んで静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が出てきた時が空無辺処に入った時だったのかもしれません。

無想定に安住しないように禅やヨーガでは注意がなされていますが、私の場合は否応無しに深い意識が現れてきて、(安住したいと思ったとしても)「安住することを許さない」という感じの強制的な奥深い意識の現れだったような気が致しますね。もちろん今も続いています。