心が静かになり、自分だけが残っているような感覚になります。自分の体というより自分の心だけが残っている状態です。その周囲に時折雑念も浮かびますが、ふと気が付いて我に返ることで再度、心だけの状態に戻ります。
その、心だけの状態は澄み切っているといえば澄み切っているのですが、完全な白というよりは、すみれ色の朝焼けのような境地なわけです。
その境地が、瞑想の間、長く続きます。
時折、小さな雑念が浮かぶと、それをちょっと観察するくらいで済んで、やがて再度、すみれ色の朝焼けの境地へと戻ってゆきます。
更に時折、想像の中に吸い込まれることもありますが、ふと気が付いて我に返れば、再度、すみれ色の朝焼けの中へと戻ってゆきます。
そこは、心だけが残っている境地。
私の心だけが自分のハートにいて、特に胸のあたりが前方向に広がる感覚がします。
これは、実際にすみれ色が見えているという意味ではないです。心境的にそのように感じられるということです。
この状態でいつものようにムーラダーラを意識してエネルギーをアジナに上げるということもできますし、サハスララを意識して天のエネルギーを降ろすこともできます。
しかし、そのエネルギーとこのすみれ色の朝焼けのような境地とは、共存できるようです。
特にエネルギーが高まると境地が変わるとか、そういうことはないようで、すみれ色の境地のまま、そのようなエネルギーワークも行うことができます。
少し前までは、雑念を追い払うためにエネルギーを高める、ということはよくありましたし、エネルギーと共に雑念が変わることはよく経験しておりました。
この私の中心にある、いわゆる心の本性のようなものは、エネルギー的な動きとは切り離されているかのようです。
その周囲でエネルギーが高まっても、心の本性のようなものは変わらずそこにあり、そして、その境地はすみれ色の朝焼けの状態を保っているわけです。
更には、その心というものは、瞑想の中であらかじめ意思を示しておくことで次第に小さくできるように思います。何かを思えばその心が大きくなり、思わなければ心が小さくなる。それは、意思をあらかじめ示すことで心はコントロールすることができる。心があまり動いていなくてもよい境地、あるいは、心が小さくなっても心が動揺せずに静かにしている境地を表すのならば、それは、すみれ色の朝焼けのような境地と言えるのかなと思います。
おそらく、ここで心を小さくしていってついには心をなくすと一応は安楽の状態にはなりますがそれは仏教で厳しく諌められている滅心定(あるいは無想定)になってしまうのかなと思います。(これは理屈で言うと無想定の筈ですけど、直感が滅心定だと言うのでひとまず併記してあります。)そうして心を無くしてしまった場合、安楽な状態で数百年が過ぎ、そしてまた少し前の段階から修行をやり直さなくてはならないと言います。心は浄化して仏にまで昇華させるべきもので、無くしてしまうものではない、ということなのかなと思っております。確かに、この段階にはそのような勘違いをしてしまう落とし穴があるような気が致します。グルの手ほどき、あるいは、聖典による勉強がこのようなつまづきを防ぐことなるのかなと思います。これはとても微妙で、気をつけていないと気付かず間違ってそれが良しと思って心を無くしてしまうかもしれないですね。精神修行にはこのような落とし穴がいくつもあると思います。
ここ半年ほどの間で度々このような状態になることもあって、時には揺り戻しが起きてそれより低い状態に戻ったりもしていましたが、そろそろ安定してきたように思います。
私の場合、心をなくす方向に安住しそうになると現実世界で心を乱すことが起きて少し後戻りし、やりなおししつつこのことの本質を理解していったような感じです。おそらくはそれは自分のスピリットがそのように意図したのかなとは思います。それと合わせて、心の奥底から奥深い意識が出てきて安住を許さなかった、という面もあります。
最近読んでいる油井真砂さんの著書「信心と座禅」に基づきますと、これは空無辺処(くうむへんしょ)あるいは識無辺処(しきむへんしょ)と呼ぶ状態のようにも思います。
・空無辺処(くうむへんしょ)→これから
・識無辺処(しきむへんしょ)→これへ
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)
まず、心だけが残された状態が空無辺処とのことです。
有相の影から離れきる。(中略)識心というものが1つ、微かな有相をたたえた依所(えしょ)として残されているのである。「信心と座禅(油井真砂著)」
そして、次の段階である識無辺処については以下のように記されています。
胸にとどろきを伝えて、広々とした感じが全身に広がるのである。(中略)自己の上に宇宙の広大さが感じられるという境地、これが空無辺処定が完全に成ぜられたところであると同時に、識無辺処定が開けたところになるのである。(中略)一切の有形を操る無相の力が、形なき気の動きとして如実に観じられるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」
今は、宇宙の広がりと一体にはまだなっていないですが確かに自分の体が宇宙と一体だと感じられているので、該当していると思います。
識無辺処に達して初めて気の動きがわかるようになる、ということなのかもしれません。
私の場合、もともと気の感覚はあるにはありましたけど、ここにきて更に一層、細かくわかるようになった気が致します。スーパーの食品での波動の感知の感覚がより細かく分かって、波動の悪い食べ物を避けるのが更に容易になりました。以前はちょっと迷ったり他のと混ざってわからないことも多かったですけど、今はかなり明確です。
識無辺処に達してようやくスピリチュアルが実践できるのかもしれません。