油井真砂さんの著書「信心と座禅」を読んでいきます。
・空無辺処(くうむへんしょ)→ここから
・識無辺処(しきむへんしょ)→ここへ到達する前兆
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)
先日の記述に加え、識無辺処から無所有処への遷移について次のような記述があります。
やがてその識心の上へ、生物創生の根本相である陰陽両気相克の順萬字相(卍)がこつ然と権限するのである。(中略)最後に残された1つの依所(えしょ)としての識心が(中略)とざされた識心が、瞬間ぱっと開破されるのである。これで、最後に残された依所(えしょ)としての識心が空(くう)じられたのである。「信心と座禅(油井真砂著)」
萬字(卍)によく似た形相としての太極図っぽい感覚であれば少し前に感じてそれ以来は基本的にその状態を基本としておりますので、萬字が太極図と同じような意味合いで使われているのであれば、半分くらいはこれに該当するような気が致します。
そして、最後に残された心が「ぱっ」と開けるというお話は、胸のあたりのハートが開くというお話であれば私の最近のアナハタで「パチン」という小さな感覚が一瞬したことが該当しているかもしれません。開く前は少し苦しい不安定な感じになりましたので、同書の記述にもそのあたりの状態が描かれていて開く前の状態は「重々しい状態で閉ざされている」ということですので、私の状態とも一致します。
ですけど、それはまだ後半の記述のように完全に開けたという感じでではないので、おそらくは前兆なのかな、という気が致します。
補足しますと、アナハタはこれ以前にも小さく何度も変化が起きていましたので今回だけ特別というわけでもないです。
他の人の体験談を読むと、アナハタが開く時は「思いっきり胸が千切れた感じがして口から泡を吐いて気絶する」くらいの衝撃を受ける時もあるようですので、人によるのかもしれません。私の場合は今の所、そんなびっくりするようなことはなくて、何度かに分けて開いてきた感じです。
まあ、それとは別に、チャクラが開く時に特別な体験が必ず起こるわけではないというチベット仏教の教えもありますので、このような感覚に頼りすぎる必要はないのかもしれないですけど。
(識無辺処は)外へ繋がれていた心眼の実気(じっけ)が、ここで完全に捨離されると同時に、内的にも空じられるという実相顕現の境地である。「信心と座禅(油井真砂著)」
このことがすみれ色の朝焼けのような境地と言えるのかもしれませんけど、完全に空じられたとかそういう感じはなく、どこかしっくりきません。よって、識無辺処には入っているもののそれは卒業していなくて、それでいて、少し次の段階の識無辺処を垣間見ている、という感じのような気が致します。
識無辺処の前兆が各所に現れてきているのかもしれません。