静寂の境地でようやくゾクチェンのシネーの境地

2020-12-20 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

もっと前にシネーの境地に達していた気がしておりましたが、2020年9月頃に目を開けていても平穏な瞑想状態が続く境地になったことでようやくシネーの境地に達したと考えるのが自然のように思えてきました。

個人的にはそれ以前にも何段階か階梯があったように思いますが、今までの理解は一段階ズレていたのかもしれません。今までシネーの境地だと思っていたシャマタ(集中)の境地は、ここ最近になってようやく達成した境地と考える方が今思えば自然です。

(1) シネー (ネワとも呼ぶ) 寂静の境地
 対象を決め、あるいは対象なしで、意識と視線を固定し、寂静の境地に入っていく。この状態が自然になり、さらに確固としたものになる。
(2) ラントン(ミヨーワとも呼ぶ) より大いなるヴィジョンないし洞察
 寂静の境地は溶解し、あるいは「目覚めさせられる」。思考の動きがあっても、内的な「見張り人」なしで、修行は進められるようになる。寂静の境地は、もはや努力して作り上げるものではなくなる。
(3) ニメ(ニャムニーとも呼ぶ) 不二の境地
 シネーとラントンは、ともに生じる。二元論の彼岸に至る。
(4) ルンドゥップ あるがままで完全な境地
 あらゆる行為において、不二の三昧が継続している。

「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

同書の別の章、あるいは他の本にはシネーの後に続くのはテクチューとトゥガルとなっていましたが、流派によって若干異なるようです。

私の場合、シネーの境地は集中して静寂の境地に至るという段階に相当するように思います。
ラントンは、静寂の境地に浸ることを許さない奥深い意識が該当するかもしれません。

ニメの段階は、よく分かりませんね。最後のルンドゥップはまだな気がします。

シネーとテクチューとトゥガルという階梯ですとシネーとテクチューの区別がつきにくくて勘違いしてしまいがちな気が致します。一方、上記の階梯ですと静寂の境地は1つしかありませんから割とはっきりしていますね。

こちらの階梯の方が私の状態に近くてしっくりきます。

であるならば、シネーは私の経験した涅槃のようにも見えなくもない静寂の境地で、次のテクチューは比喩的に言えばすみれ色の朝焼けのような境地が該当しているのであればしっくりきます。

であれば、割と達成したばかりのこの境地を深めてゆくことが今は肝心ですね。おそらくは。