先日、胸の奥の神意識がこの世を思いのままにできることを実感して恐怖を感じたわけですが、実際はそれはそれなりに怖いですが、「魔」のような怖いものではなくて、創造と破壊という2面のうち破壊の方なのだと思います。
しかしながら、感覚としては「魔」として認識されてもおかしくはないものだと思います。
創造と破壊の、破壊の面が人によっては「魔」と認識されるのもあり得ると思います。そのくらい、感覚としては怖いものも感じますが、それと同時に創造のエネルギーが満ちていて、単なる「魔」というわけではありません。
ヨーガの人でこの感覚を「魔」と表現している人もいるような気も致します。
ですけど、それは「魔」というよりも、「創造」、と表現した方が適切のようにも思います。
これは修行を進めてゆけば必ず遭遇する「魔」で、これとは別に本当に悪魔のような存在もいますけど、それは別物です。必ず遭遇する「魔」ということであれば創造の破壊の面のことだと思います。それは恐ろしくも感じますから「魔」とも言えるのだと思います。
これとは別に雑念やトラウマなどに囚われる状態を「魔境」とも言ったりしますけど、それとも別物だと思います。
想像とかトラウマとかそういうお話ではなく、存在そのものが創造と破壊の両面を持っているという認識で、それが胸の奥底に存在、というか、近づいてきて現れて、最初は激しく、その後はずっと淡く存在している、というように認識されるわけです。
ちょっと違うかもしれませんけどこのようなことを言っているヨーガの大家もいらっしゃいますね。ちょっと表現が違うので別物かもしれませんが同じことかもしれません。
個人のカルマを超えたような世界へいこうとすると、必ず邪魔をする魔が出てきます。必ずね。魔に会わないようなやつは、宗教者としては、霊的な成長という点から見たらまだ駆け出しなのです。魔に会わないような人は、まだまだ宗教的には一人前ではない。まだ個人のカルマの中で動いているに過ぎない。霊が憑いた、怖い、などと言っても、そんなのとは全然違うのですよ、魔に出あうというのは。魔に会ったらそれこそ怖いから、どうしたって神様を拝むようになります。「超意識への飛躍(本山博著)」
本当にいるのかもしれませんけど、もし同じものだとすれば、私にはそんなに悪い怖い魔というよりは、創造と破壊の破壊の面のことだと思いました。これは避ける必要がない、と個人的には判断しました。
存在としての魔物であれば必ず遭遇するわけではないと思いますけど必ず遭遇する魔だとしたらこれと同一な気が致しますけどね。どうでしょうか。
そういえば、シュタイナーの説く「境域の守護者」というのもありましたね。もしかしたらこれも同じことかもしれません。であれば納得です。昔にも何やら怖く見える影のようなものを瞑想中に見て、それが越境の守護者かともその時は思いましたけど、それよりもこの創造と破壊の破壊の面が「越境の守護者」と認識されるのであれば、その方がしっくりきます。