油井真砂さんの著書「信心と座禅」を読んでいきます。
・空無辺処(くうむへんしょ)→これから
・識無辺処(しきむへんしょ)→これへ
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)
先日、識無辺処の前兆が現れてきているのかもしれない、という分析をしましたがここにきて胸の奥の神意識がこの世を思いのままにできることを実感して恐怖を感じるという感じになりましたので、その感覚と同書の記述を見比べるとどうやら先日までは空無辺処の段階にいて、同経験を経てから識無辺処に入った、と解釈する方が妥当な気がしてまいりました。
この時はっと胸にとどろきを伝えて、広々とした感じが全身に広がるのである。(中略)こうして自己の上に宇宙の広大さが感じられるといふ境地、これが、「空無邊處定」が完全に成ぜられたところであると同時に、「識無邊處定」が開けたところになるのである。「信心と座禅(油井真砂著)」
ということであれば、私が胸の奥に「創造と破壊の意識」を感じて恐怖すら感じたことが該当するように思います。それは言い換えれば宇宙意識と言っても良いと思います。この世を統べる法とでも言いましょうか。人によっては神、あるいは神意識と言うかもしれません。
この状態では、自分の個としての心というものは端っこに追いやられている、というようなことが書いてあります。そして、次の段階に達すると隅に追いやられていた個としての心が完全に空じられる(なくなる?)と書いてありますので、その1つ前の段階として私の状態は一致するように思います。
であれば、私は「創造と破壊」の意識を知った時点で空無辺処が完成して識無辺処に移行した、とみなすのが良さそうです。
ただ、完全にその状態になったわけではなく完全にするためにはもう少し時間がかかるということだと思います。最初こそ創造と破壊の感覚は強烈でしたが今はそこまでではありませんので、瞑想を深める必要があるのだと思います。